「上与那原寛和」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Mymelo (会話 | 投稿記録)
m 年号など
地図帳 (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
9行目:
その後は知人に誘われて[[リハビリ]]として車いすマラソンに誘われて参加。2003年には初の大会となるぎのわん車いすマラソン大会に出場。2006年には[[大分国際車いすマラソン]]のハーフマラソン部門で優勝を果たし、大会新記録を樹立。2007年の長野車いすマラソン大会のハーフマラソンでは日本記録を更新し、同年の大分国際車いすマラソン大会のフルマラソンでも当時の日本記録を樹立した。2008年の長野車いすマラソン大会ではハーフマラソンの日本記録をさらに更新し、日本パラリンピック委員会より[[北京パラリンピック]]への出場が内定した<ref>[http://sports.geocities.jp/pekinpara_08/ueyona.html 北京パラリンピック日本代表沖縄県選手を支援する会]</ref>
 
北京オリンピックでは200m、400m、800m、マラソンに出場しており、200m、400mで6位、800mでは自己ベストを5秒記録する走りだったものの4位でメダルには届かなかった(この種目の金メダリストは[[伊藤智也]]、銀メダリストは[[高田稔浩]]でともに日本の選手であった)。しかし最後の種目となったマラソンでは40キロ過ぎよりスパートをかけて1時間40分10秒の世界記録を3分半ほど更新する記録であったが、[[オーストリア]]の[[トーマス・ガイアシュペヘラー]]にわずか3秒及ばずに銀メダルを獲得した<ref>[http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-136305-storytopic-162.html 上与那原(車いすマラソン)が銀メダルの快挙]</ref>。帰国後には[[仲井眞弘多]][[沖縄県知事]]より県民栄誉賞を授与された。沖縄県民名誉賞が授与されたのは[[1999年]]に[[沖縄尚学高等学校・附属中学校|沖縄尚学高等学校]]が[[第71回選抜高等学校野球大会]]で沖縄県勢初となる優勝を果たして送られて以来の2度目であった。<ref>[http://willcom.ryukyushimpo.jp/news/storyid-137413-storytopic-1.html 「県民に希望と活力」 上与那原選手に県民栄誉賞]</ref>
==出典==
{{reflist}}