「神体山」の版間の差分

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出典求めるというより、1616年に死去している徳川家康が1777年に寄進することは不可能なので文章の誤りか脱落があると思われます。
ご指摘ありましたので削除しました。また広がりすぎて曖昧になってしまった部分も削除。あとは文章の統合と追記。
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'''神体山'''(しんたいさん)とは主に[[神道]]において[[神 (神道)|神]]が宿るとされる[[山岳信仰]]や[[神奈備]](かなび・神々が神留まる森林を抱く山)の[[山]]をいう。
 
また、「霊峰」ともよばれ[[霊峰富士]]として、[[富士山]]が代表的なものである。また[[峠]]や[[坂]]という小さな[[峰]]も[[神域]]や[[神 (神道)|神]]が宿る場所とし畏怖畏敬した。
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[[文化人類学]]の[[アニミズム]]論によれば、[[人類]]が[[生]]と[[死]]という現象を客観的に捉え、それを[[自我]]や[[意識]]わせた[[観念]]として「[[命]]」という認識を作り出し、[[生き物]]や[[自然]]の[[山河]]や[[岩]]や木々にも命や神や[[霊]]が宿ると考えた。これは、[[日本]]において同様であり、[[神道]]、特に[[縄文時代]]以前からある[[縄文神道]]といわれる[[古神道]]([[6世紀]]以前の外来の[[習俗]]に影響される前の神道で、現在の日本の[[民間信仰]]でもある)においては、大きいものや長くあるものや古いものに、より位の高い神が宿ると考えた。
 
その代表的なものが山や峰峰([[連峰]])であり、特に特徴的な大きな山に神が宿るとされ、これを山岳信仰という。山岳信仰は日本に限らず世界中にあり、同時発生的に生まれたとされる[[巨木信仰ケニア]]南部の[[マサイ族]]や[[巨石信仰キユク族]]ともつなは[[キリマンジャロ]]を神座する山として信仰しその他には[[イギリスチベット]]の[[シェト民族]][[エベレストーンサークル]]ようなを、中国[[環状列石雲南省]][[列石ナシ族]](納西族)、世界はもとより、日本にもあり[[磐座玉龍雪山]](いわくら)信仰という。また巨木信仰もを、[[オースーテムポールラリア]]や日本の[[神木アボリジニ|アナング]]などがあり、日本において(アボリジニ)は[[神籬ウルル]](ひもろぎエアーズロックをそれぞれ神が宿る、神の山として信仰してわれる。
 
この二つが同時日本結びついたものとして、[[神奈備]](かんなび)といわれるものがあり、山岳信仰の一つの形でもある。古くは神奈備は[[磐座]](いわくら)・磐境(いわさか)とともに、普通の山だけでなく、[[火山]]や森を抱かないいわゆる裸山や禿山も信仰の対象としたが、神奈備は木々や森林を抱く集落に隣接する山として、[[鎮守の森]]や[[神籬]](ひもろぎ)に変わっていき、磐座は巨石信仰としての色合いが強くなり、[[夫婦岩]]などとともみられる岩・奇岩や巨石・奇石信仰として霊石のかわになり、現在では神籬と合わせ[[神社神道]]の[[玉垣]]の原型になったといわれる。
 
これらの古神道の信仰された場所に、現在の多くの神社神道の「社(やしろ)」が建立され、賽神は自然そのものから「[[尊]]」(みこと)といわれる人格神に取って代わっていった。このことは古代の神社の多くが神体山信仰(神奈備)に起源があり、その理由根拠として、[[神社]]の[[建築様式]]おいて基本的は「[[鳥居]]→[[社殿]]→神体山」とう序列があり、参拝者の後方に神体山が存在する場合にも[[参道]]を考慮に入れるとこの序列は成立しいるとする説 <ref>富沢雄史・峰岸隆・寺地洋之・加藤祐策「神体山にみられる古代信仰形態と神社の配置構成―神社の空間構造に関する研究(その2)」「学術講演梗概集(F-2 建築歴史・意匠)」(日本建築学会)1996年7月。</ref>からも窺い知ることができ、その他にも各説があるが、古来から大規模集落にみられた祈祷や祭礼の場所としての古神道の神殿が、仏教思想の影響により、神社の本殿に神が鎮座するとする「[[神常在思想]]」が発生したと、池辺弥はしている <ref>池辺弥『古代神社史論攷』吉川弘文館、1989年。</ref>ことなども、古神道の場所に神社が建立された、とする説明に合致する。また[[景山春樹]]は[[古墳]]や[[塚]]と同様に[[祖霊]]信仰に始まり、やがて[[山]]そのものを信仰の対象とする自然神道的な形態に変遷し、後に山中の祖霊神に農耕の神の観念が重なっていったと解釈している <ref>景山春樹『神体山』学生社、1971年。</ref>。
 
後世には古神道における山岳信仰が、[[教]]信仰の[[山岳信仰禅宗]]や[[道教]]([[陰陽道]]と習合し、[[修験道]]における登拝も活発化した <ref>斎藤忠『日本考古学用語辞典』学生社、1992年。</ref>。
基本的には「[[鳥居]]→[[社殿]]→神体山」という序列があり、参拝者の後方に神体山が存在する場合にも[[参道]]を考慮に入れるとこの序列は成立しているとする研究がある <ref>富沢雄史・峰岸隆・寺地洋之・加藤祐策「神体山にみられる古代信仰形態と神社の配置構成―神社の空間構造に関する研究(その2)」「学術講演梗概集(F-2 建築歴史・意匠)」(日本建築学会)1996年7月。</ref>。
 
池辺弥は仏教思想の影響により、神社の本殿に神が鎮座するとする「[[神常在思想]]」が発生したとしている <ref>池辺弥『古代神社史論攷』吉川弘文館、1989年。</ref>。
 
後世には[[仏教]]信仰の[[山岳信仰]]と習合し、[[修験道]]における登拝も活発化した <ref>斎藤忠『日本考古学用語辞典』学生社、1992年。</ref>。
 
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[[平安時代]]の文学の『[[更級日記]]』には、富士山の神が、[[朝廷]]の次の年の除目(人事)を決めると当時の一部の人々には思われていた記録がある。
 
{{要出典範囲|[[徳川家康]]が[[1777年]]に[[浅間大社]]に土地を寄進した経緯|2009年3月15日 (日) 09:50 (UTC)}}で、富士山の8合目より上の部分は、登山道、富士山測候所を除き、浅間大社の[[境内]]となっている。但し、[[静岡県]]、[[山梨県]]の県境が未確定のため、土地登記はしていない。
 
===富士山本宮浅間大社===
富士山頂には[[富士山本宮浅間大社]]の奥宮があり、富士山の神と[[コノハナノサクヤビメ]]を祭る。コノハナノサクヤビメは「[[火の神]]」とされることがある。しかし、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「[[水の神]]」とされている。富士山の神が木花開耶姫命とされるようになったかは時期・由来とも明らかではない。
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== 関連項目 ==
*[[神体]]
*[[依り代]]
*[[山の神]]