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江口磐世☆ (会話 | 投稿記録)
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== 来歴 ==
中学の時、[[教育者]](のち[[広島県]][[尾道市]][[助役]])の父親の転勤で一家で[[広島]]に移る。
中学の時、[[教育者]](のち[[広島県]][[尾道市]][[助役]])の父親の転勤で一家で[[広島]]に移る。[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]最後の78期生として入学。[[1945年]][[8月6日]][[原爆]]投下の日には、[[広島市]]郊外で勤労奉仕中で、当日市内に救援に入った。終戦後は尾道市で育ち[[広島県立忠海高等学校]]に在学。[[学制改革]]の関係で[[平山郁夫]]は同級生となる。尾道では[[洋画家]]の[[小林和作]]に可愛がられた。[[尾道短期大学]]を経て[[1954年]][[早稲田大学]]文学部国文科卒業。その後「[[劇団]]新派」で[[北条秀司]]に劇作を師事。続いて日本演劇協会事務局の書記を経て、日本教育テレビ(現・[[テレビ朝日]])嘱託となり局内(演習部)の作家として活躍した。[[1960年]]『傷痕』で[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]奨励賞を受賞し放送作家として独立。[[1962年]]『子機』で芸術祭奨励賞、[[1964年]][[ポーラ名作劇場]]『いのちある日を』で「久保田万太郎賞」を受賞するなど多くの賞を得て売れっ子作家となる。本格派ドラマのドラマライターとして最盛期には年間100本のドラマ脚本を書いた。[[1972年]]に手がけた[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]『[[繭子ひとり]]』は、同年[[2月10日]]放送分がテレビ[[視聴率]]歴代20位、ドラマ歴代7位の55.2%を記録。その他、代表作に『朱鷺の墓』([[1970年]]、NHK)、『[[三男三女婿一匹]]』([[1976年]]、[[東京放送|TBS]])、『[[野々村病院物語]]』([[1981年]]、TBS)、『[[さよなら三角またきて四角]]』([[1982年]]、TBS)、『妻の日の愛のかたみに』(1982年、テレビ朝日)、[[1983年]]の[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[24時間テレビ 「愛は地球を救う」|24時間テレビ]]内で放送された『黒い雨・姪の結婚』などがある。
 
[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]最後の78期生として入学。
その後脚本家を辞してテレビから離れ小説・随筆などを発表している。また[[1960年]]から[[埼玉県]][[所沢市]]に住み同市の市民憲章の起草委員長を務めるなどの活動もしている。[[1992年]][[褒章|紫綬褒章]]。[[1999年]][[勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]]。
 
[[1945年]][[8月6日]][[原爆]]投下の日には、[[広島市]]郊外で勤労奉仕中で、当日市内に救援に入った。
 
終戦後は尾道市で育ち[[広島県立忠海高等学校]]に在学。[[学制改革]]の関係で[[平山郁夫]]は同級生となる。
 
尾道では[[洋画家]]の[[小林和作]]に可愛がられた。
 
[[尾道短期大学]]を経て[[1954年]][[早稲田大学]]文学部国文科卒業。
 
その後「[[劇団]]新派」で[[北条秀司]]に劇作を師事。
 
続いて日本演劇協会事務局の書記を経て、日本教育テレビ(現・[[テレビ朝日]])嘱託となり局内(演習部)の作家として活躍した。
 
[[1960年]]『傷痕』で[[芸術祭 (文化庁)|芸術祭]]奨励賞を受賞し放送作家として独立。
 
[[1962年]]『子機』で芸術祭奨励賞、[[1964年]][[ポーラ名作劇場]]『いのちある日を』で「久保田万太郎賞」を受賞するなど多くの賞を得て売れっ子作家となる。
 
本格派ドラマのドラマライターとして最盛期には年間100本のドラマ脚本を書いた。
 
[[1972年]]に手がけた[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]『[[繭子ひとり]]』は、同年[[2月10日]]放送分がテレビ[[視聴率]]歴代20位、ドラマ歴代7位の55.2%を記録。
 
その他、代表作に『朱鷺の墓』([[1970年]]、NHK)、『[[三男三女婿一匹]]』([[1976年]]、[[東京放送|TBS]])、『[[野々村病院物語]]』([[1981年]]、TBS)、『[[さよなら三角またきて四角]]』([[1982年]]、TBS)、『妻の日の愛のかたみに』(1982年、テレビ朝日)、[[1983年]]の[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[24時間テレビ 「愛は地球を救う」|24時間テレビ]]内で放送された『黒い雨・姪の結婚』などがある。
 
その後脚本家を辞してテレビから離れ小説・随筆などを発表している。
 
その後脚本家を辞してテレビから離れ小説・随筆などを発表している。また[[1960年]]から[[埼玉県]][[所沢市]]に住み同市の市民憲章の起草委員長を務めるなどの活動もしている。[[1992年]][[褒章|紫綬褒章]]。[[1999年]][[勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]]
 
[[1992年]][[褒章|紫綬褒章]]。[[1999年]][[勲四等]][[旭日章|旭日小綬章]]。
 
== 外部リンク ==