「ヴァーツラフ・ターリヒ」の版間の差分

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さらに1935年からは[[プラハ国民劇場]]の音楽監督を務めるなど、多くの激務を抱える身となり、1941年にチェコpoでの地位を[[ラファエル・クーベリック]]に譲った。第二次大戦後はチェコ室内管弦楽団を創立し、またスロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団の主席指揮者を務めた。1961年、チェコの[[ベロウン]]で逝去した。
 
チェコpoを現在あるような国際的なオーケストラにまで高めたのはターリヒの功績であるといわれる。それまで[[ヨーロッパ]]の古い街には必ずある地方オーケストラの一つにすぎなかったチェコpoは、彼の薫陶を受けてその実力を高め、著名な指揮者や独奏者が客演するようになり、聴衆の耳目を惹くようになっていった。ターリヒが指揮するチェコpoの演奏する[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]を聴いた[[エフゲニー・ムラヴィンスキー]]はそのすばらしさに感嘆し、その後ドヴォルザークを演奏しなかったという。ターリヒの演奏はスラヴ風の野趣を残しながらも、ニキシュ流の明朗さと気品をもっていた。ドヴォルザークや[[ベドルジハ・スメタナ|スメタナ]]の演奏の録音が残されており、耳にすることができる。
 
教育者としてもターリヒは優れた人材を多く輩出しており、主な弟子に[[カレル・アンチェル]]、[[ヴァーツラフ・ノイマン]]、[[チャールズ・マッケラス]]らがいる。