「尾上菊五郎 (3代目)」の版間の差分

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'''三代目 尾上菊五郎'''(さんだいめ おのえ きくごろう、[[天明]]4年([[1784年]]) - [[嘉永]]2年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]([[1849年]][[5月16日]]))は[[江戸時代]]後期の[[歌舞伎]]役者。[[俳名]]は賀朝、梅幸、三朝、梅寿。別名に扇舎、植木屋松五郎、菊屋万平。[[屋号]]は[[音羽屋]]。[[家紋|定紋]]は重ね扇に抱き柏。
 
==来歴==
江戸小伝馬町の建具屋の子。[[尾上松助 (初代)|初代尾上松助]]の養子となる。尾上新三郎ののち初代[[尾上榮三郎]]の芸名で天明8年([[1788年]])11月江戸市村座『源氏再興黄金橘』で初舞台。文化5(1808)年、父の代役として『彩入御伽艸』の小幡小平次の水入りを演じたのが出世芸となる。以後は父譲りの怪談や早変わりで人気を集め、翌[[文化 (元号)|文化]]6年([[1809年]])父の名を継いで二代目[[尾上松助]]を襲名。文化11年([[1814年]])三代目[[尾上梅幸]]を経て、文化12年([[1815年]])に三代目[[尾上菊五郎]]を襲名した。
 
==芸風==
『[[東海道四谷怪談]]』『法懸松成田利剣』『阿国御前化粧鏡』『独旅五十三次駅』『心謎解色糸』などの[[鶴屋南北|四代目鶴屋南北]]作の[[狂言]]に主演して生世話物や怪談もののケレン芸に長じ、『伊勢音頭』の福岡貢や『[[仮名手本忠臣蔵]]』の勘平、『[[義経千本桜]]』の権太、『助六』の花川戸助六などの従来の作品にも優れた演出を工夫し今日に伝わっている。
 
[[市川團十郎 (初代)|初代市川團十郎]]以来続いてきた江戸歌舞伎の型を整理した名優。「どうして俺はこんなにいい男なんだろう」と楽屋で自身の顔を鏡に映しながらつぶやいたほどの美貌で、それに演技力に優れ創意工夫を絶えず忘れない努力家でもあった。多くの怪談狂言では作者の鶴屋南北、道具方の十一代目長谷川勘兵衛、鬘師友九郎、衣装方など裏方と協力して次々と新機軸を生み出していった。幽霊や妖怪から一転して美男美女に早変わりをするうまさは観客を喜ばせた。役柄も広く「立役、女形、老人、若衆形、立敵から三枚目まで、そのままの姿で替ります」(「役者外題撰」天保10年)と評され「兼ネル」の称号までを与えられている。
 
==人物==
『東海道四谷怪談』は文政8(1825)年7月の江戸中村座の初演でお岩、小平、与茂七三役早変わりを演じて以来当たり役となり、生涯に九度演じた。お岩を演じた際、顔ごしらえ(メイク)を怖がらない弟子がいると、舞台裏の奈落でいきなり現れておどかした。「師匠びっくりするじゃありませんか」と弟子が言うと「怖がらせておいて舞台に出ないといけねえからこうしたんだ」と言って弟子に駄賃をあげたり、吹き替えのお岩を演じる弟子に「お岩の死体だって恨みがこもっているんだから、ただ寝ているだけじゃあいけねえ。こぶしを握るとか足を曲げるとか工夫をしろ」と助言するなどの挿話が残っている。尾上家十八番の怪談劇を演じる第一人者として、「お化けを演じるのは気楽に、幽霊を演じる時は気を重くする」という言葉も残している。
 
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自信家で、ほかの俳優の給金が千両なのに腹を立て自分は千五百両でないと出演しないと申し入れたり、好敵手の俳優が共演しないので自身も仮病を使って休座するなどの事件を起こしている。
 
[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]]・[[岩井半四郎 (5代目)|五代目岩井半四郎]]・[[松本幸四郎 (5代目)|五代目松本幸四郎]]らとともに[[]]の江戸歌舞伎の黄金時代を作り上げた菊五郎であったが、人気絶頂時に舞台を去り猿若3丁目に餅屋を開き菊屋万平と名乗る。だが舞台が忘れられず嘉永元年(1848年)[[大川橋蔵]]と改名。上方の舞台に出演して江戸に帰る途中、掛川で死去した。
 
長男は[[尾上松助|三代目尾上松助]]、次男が[[尾上三郎|四代目尾上三郎]]、養子に[[尾上菊五郎 (4代目)|四代目尾上菊五郎]]、[[市村羽左衛門 (12代目)|十二代目市村羽左衛門]]<!--、門人に[[尾上菊次郎 (2代目)|二代目尾上菊次郎]]・[[尾上松緑|京極屋 尾上松緑]]、二代目尾上多見蔵などがいる-->。
 
三代目の芸は孫の五代目尾上菊五郎によってさらに洗練され、今日の尾上家の芸の基となっている。