「千葉自胤」の版間の差分

なお東常縁は、[[応仁の乱]]で所領である[[美濃国]]郡上を[[斎藤妙椿]]に奪われはしたが、10首の和歌をもって返還が叶い[[文明 (日本)|文明]]元年([[1469年]])4月に、子東縁数を下総に残して帰京している。
 
その後自胤は、文明10年([[1478年]])12月、(この時既に孝胤は足利成氏からも離反しており、[[山内上杉家]]・扇谷上杉家・古河公方の合意もあって)太田道灌の支援を背景にして孝胤追討に立ち上がり、12月10日には[[境根原合戦]]に勝利し、孝胤らが軍勢をまとめて退却し籠城した[[臼井城]](現在の[[佐倉市]]臼井田)を、文明11年([[1479年]])7月15日に落城させ、下総・上総の大半を制圧した。だが、この20年の間に輔胤・孝胤による千葉領支配体制は既に完成しており、同地に支持勢力を有さなかった自胤は上杉氏の内紛に巻き込まれていく中で撤退を余儀なくされ、結果的には孝胤の子孫による下総千葉氏継承が確定される事となった。なおこの際、太田道灌の甥の[[太田資忠|太田図書助資忠]]が討ち死したといわれ「太田図書之墓」は佐倉市の文化財になっている。
 
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