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教育者としても優れ、幕府が設立した医学舘の教官として任じられた他、[[享和]]2年『顕微鏡用法』を著し、[[顕微鏡]]を医学利用した初めての日本人として知られるとともに、その使用法の教授を[[徳川家斉]]等に行い、普及に努めた。また、オランダ商館長から贈られた、蝋製の人頭模型を基に、日本初の木造人頭模型の作成を指示したなどの功績が有る。
 
[[寛政]]4年、[[ロシア]]から[[大黒屋光太夫]]、[[磯吉]]が送還されるとた。翌5年徳川将軍家斉は、吹上御所その調査を命ぜられた。これは光太夫らが将軍に謁見許された折、呼び出して見物する。「かの国(ロシアに滞在中、かの地の学者から甫周らが「)では日本紀行のことを知っているかとの質問光太夫は日本いろいろな事代表よく知っていまる大学者」。……日本人記されは、桂川甫周様、[[中川淳庵]]様とう方名前を聞いたと語っきまし。日本のを書いた書物の中載っていとの事です<ref>『大黒屋光太夫史料集・第3巻』p.20</ref>」と答えたこのときの書記役は甫周は調査であり、問答『[[漂民御覧記]]』としてまとめた。のち光太夫を訪ね詳しい話を聞き取り、『[[北槎聞略]]』(寛政6年・1794年)を編み将軍に献上した。その他『[[漂民御覧之記]]』以下、外国地理に関する訳著(魯西亜誌・万国図説など)がある
 
他に、『新製地毬萬國圖説』(1786年)、『地球全図』(1791年)、『魯西亜志』(1793年)など、外国地理に関する訳書がある。
 
==4代甫周が登場する作品==