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{{基礎情報 軍人
{{wikify}}
| 氏名 = イタロ・バルボ
{{出典の明記}}
| 各国語表記 = Italo Gariboldi
第二次世界大戦中の東部戦線へのイタリア軍派遣部隊の司令官
| 生年月日 = [[1879年]][[4月20日]]
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1879|4|20|1970|2|3}}
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| 渾名 =
| 生誕地 = [[エミリア=ロマーニャ州]] [[ロディ]]
| 死没地 = [[ローマ]]
| 所属政体 = {{ITA1861}}
| 所属組織 = [[イタリア陸軍]]
| 軍歴 =
| 最終階級 =
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| 部隊 =
| 戦闘 = [[第二次エチオピア戦争]]<br />[[第二次世界大戦]]
| 戦功 =
| 賞罰 =
| 除隊後 =
| 廟 =
}}
'''イータロ・ガリボルディ'''(Italo Gariboldi [[1879年]][[4月20日]]-[[1970年]][[2月3日]])はイタリアの軍人。[[第二次世界大戦]]中の[[東部戦線]]へのイタリア軍派遣部隊の司令官を務めた。
 
1879年に[[ロディ]]で生まれた。[[第一次世界大戦]]の終わりから[[戦間期]]に昇進を続けて[[連隊]]長、[[旅団]]長となった。
1942年にドイツ軍参謀本部の要請を受けて、指揮する複数の山岳師団や歩兵師団・アルピーニ師団が増援として派遣される
 
1935年に第30師団長となり、[[第二次エチオピア戦争]]で戦った。彼の師団は[[エリトリア]]を本拠地とした第1軍団に属した。1936年にイタリアが[[エチオピア]]を破るとエリトリア、エチオピア、[[イタリア領ソマリランド]]は[[イタリア領東アフリカ]]となった。
その際にイタリア・ロシア派遣軍 (CSIR)はイタリア・ロシア戦線軍 (ARMIR) に改称された。
 
1939年から1941年までガリボルディは[[イタロ・バルボ]]の下で[[北アフリカ戦線]]で戦った。イタリアが第二次世界大戦に参戦した際、彼の率いる第5軍団は[[リビア]]とフランス領[[チュニジア]]の国境地帯にあった。[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]が完了すると今度は彼の軍団は[[エジプト]]国境に移り第10軍の指揮下に入ることとなった。1940年12月に始まった[[コンパス作戦]]では病いのため戦線を離れたマリオ・ベルティ将軍の後任のジュゼッペ・テレラ将軍が戦死した後は第10軍の指揮も執った。1941年3月25日に[[ロドルフォ・グラッツィアーニ]]の後任としてリビア[[総督]]になった。同年7月19日に[[エルヴィン・ロンメル]]に非協力的だった彼は[[エットーレ・バスティコ]]に職を譲った。
 
1942年から1943年に彼は[[東部戦線]]へのイタリア派遣軍司令官を務め[[スターリングラード攻防戦]]にも参加した。
 
1943年に[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]、[[ピエトロ・バドリオ]]によって[[ベニト・ムッソリーニ]]が失脚し[[イタリアの講和 (第二次世界大戦)|イタリアが降伏]]すると彼は多くのイタリア軍人同様ドイツ軍の[[捕虜]]となった。
 
そして裏切り者として糾弾されていたが1944年に[[連合国 (第二次世界大戦)
|連合国]]によって解放された。
 
1970年に[[ローマ]]で亡くなった。90歳であった。
 
== 外部リンク ==
*[http://digilander.libero.it/lacorsainfinita/guerra2/personaggi/gariboldi.htm Concise biography] {{it icon}}
 
{{DEFAULTSORT:かりほるてい いたろ}}
[[Category:イタリアの軍人]]
[[Category:第二次世界大戦期の軍人]]
[[Category:1879年生]]
[[Category:1970年没]]
 
[[bg:Итало Гариболди]]
[[ca:Italo Gariboldi]]
[[da:Italo Gariboldi]]
[[de:Italo Gariboldi]]
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[[it:Italo Gariboldi]]
[[pl:Italo Gariboldi]]