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== 藩史 ==
[[喜連川頼氏]]は[[関ヶ原の戦い]]([[1600年]])に出陣しなかったが、戦後に[[徳川家康]]に戦勝を祝う使者を派遣したことから1000石の所領を加増された。それでも総[[石高]]4500石程度に過ぎず、本来ならば[[大名]]ではなく藩と呼ぶことはできない。しかし[[江戸幕府]]を開き[[源氏長者]]となった家康は、かつての将軍家でありかつ源氏長者でもあった足利氏の格式を重んじ、10万石の[[大名]]並家格と、大名として最高の尊称である[[御所号]]を許した。喜連川藩は江戸期を通じて石高が1万石に満たなかった唯一の藩ということになる。他に喜連川藩に許された特例は、参勤交代と諸役免除があげらていた
 
[[鎌倉公方]]以来の家臣団はかつての[[小弓公方]]方・[[古河公方]]方の対立などで複雑であり、1647年には御家騒動([[喜連川騒動]])が起きている。しかしこれを切り抜けて喜連川氏の支配が続き、[[明治時代]]に至る。維新後は足利姓に復して[[子爵]]に列せられた。