「比較発生学」の版間の差分

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このように比較発生学は興隆を極め、進化論と結びついて大きな流れを作った。しかしこれに批判的な動きも出始めていた。それはこのような研究が、進化や系統を明らかにする役に立ってはいるものの、発生そのものの仕組みはいっこうにわからないままではないか、と言うものである。当時、物理学や化学の進歩を受けた形で[[生理学]]が進歩し始めていたが、それは当然のように成体だけを対象としていた。しかしそのような研究対象は発生にもあるはずである。それを明らかにするのではなく、発生学が系統学の下請けになっている状況を問題視する動きでもある。
 
発生の仕組みを明らかにしよう、と言う動きも実際にあって、特に[[ヒス]](Wilhelm His 1831-1904)は発生の過程を生理学的に扱おうとした。彼はその著書(1874)で発生の過程で胚葉から様々な器官が生じる過程について、このような変形を胚葉の折りたたみで生ずるものと説き、おそらくそれは胚葉の各部分の成長速度の差によるとした。そして、折りたたみによって器官が生じるのであれば、その変形を逆にたどれば、平面上に将来それぞれの器官になるべき部分が配列した地図のようになるはずと考えた。これは後に[[フォークト]]によって[[予定胚域図]]の形で実現される。ヒスの説は抽象的な説明にすぎないが、この方向を追求すれば、発生の機構を胚の生理的性質によって説明することを求めることになる。このような方向性に賛同する学者は他にもおり、たとえばバルフォアはその著書『比較発生学概要』(1880-1881)の序論で発生学には比較発生学と生理学的発生学がある旨を記している。
 
ところが、当時の主流であったヘッケルはこのような見方に価値を認めず、ヒスの説も「つれづれの説」と皮肉ったという。彼自身は比較発生学は進化論という高邁な問題を扱っているのであって、個々の胚の内部の動きや仕組みなどは目先のつまらない問題であると思われたらしい。これに対してヒスは、ヘッケルの[[系統樹]]について、想像に頼るところが多く、科学としては根拠薄弱であると批判したと言われる。このころに動き始めた[[実験発生学]]の流れは、このような状況を背景にしていた。実験発生学は実験によって発生の機構を明らかにする方向でめざましい成果を上げ、発生学の主流になった。比較発生学は、少なくとも発生学の主流からははずれ、その名を聞くことは少なくなる。