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'''司馬顒'''(しば ぎょう、?-306年12月)は[[中国]][[西晋]]の皇族で字は'''文載'''。[[司馬懿]]の弟である安平王[[司馬孚]](叔達)の孫、太原王司馬環の長男である。
 
==略歴==
===生涯===
父親の太原王の爵位を継ぐがその翌年の河間王に改めて封地替えされる。元康年間の初期に北中将郎となり鄴城を監督した。永寧元年(301年)に趙王[[司馬倫]]が帝位を簒奪すると斉王[[司馬冏]]と共に趙王討伐軍を挙兵して司馬倫を滅ぼし、侍中・太尉に上った。そして[[恵帝 (西晋)|恵帝]]の補佐していた司馬冏が増長すると、今度は長沙王[[司馬乂]]、成都王[[司馬穎]]と手を組んで永寧二年(302年)に司馬冏を誅殺した。更に司馬乂とも亀裂が生じると司馬穎や東海王[[司馬越]]と共謀して司馬乂を攻めて金墉城に幽閉させ司馬乂を火炙りにして殺した。司馬乂を滅ぼすと東海王司馬越と対立し始めるも永興3年(306年)司馬越に敗れ太白山に敗走した。恵帝が没して[[懐帝 (西晋)|懐帝]]が即位し光煕元年(306)となると懐帝の詔で司徒として召集されるも12月に新安雍谷で司馬越の弟の南陽王司馬模の武将、梁臣に三人の息子ともども殺された。司馬顒の死によって[[八王の乱]]は収束するが皇族同士の長年の殺し合いで西晋王朝は疲弊し、胡族の中原進出を許し王朝滅亡への道へとひた走ることになる。
 
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[[Category:司馬氏|きょう]]
[[Category:魏晋南北朝時代の人物]]
[[Category:306年没]]
 
[[en:Sima Yong]]
[[zh:司马颙]]