「シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール」の版間の差分

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[[1789年]]に[[三部会]]の第一身分(聖職者)議員に選出され、自身が司教でありながら教会財産の国有化という反カトリック教会的な政策を推進した(万国共通の単位の制定〈後の[[メートル法]]〉を[[国民議会]]に提案したのも彼であると言われている)。[[1790年]]に国民議会議長に選出されるとともに司教職を自ら辞したが、ローマ教皇[[ピウス6世 (ローマ教皇)|ピウス6世]]から、それまでの反カトリック教会的行為を咎められて[[破門]]されている。
[[Image:Talleyrand 01.jpg|thumb|right|250px|壮年期の肖像画<ref>[http://pcombal.club.fr/lettre124.html Divers documents relatifs à Talleyrand]</ref>]]
 
1792年に外交使節として[[イギリス]]に派遣されるが、フランスで[[ジャコバン派]]による[[恐怖政治]]が吹き荒れたのでそのまま[[亡命]]し、[[アメリカ合衆国]]に渡った。
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1830年の[[7月革命]]では[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の即位に貢献し、この年から1834年までイギリス大使を勤めた。1838年肺壊疽により死亡。
 
== 評価 ==
ナポレオンとタレーランは、互いの天才的な才能を認めあったが、必ずしも親しい関係ではなかった。タレーランの老獪な政治手法からナポレオンは「絹の靴下の中の糞」とこき下ろすこともあった。タレーランは、変節の政治家として嫌われることも多いが、名外交官としてオーストリアの[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]と並び称され、今も評価が高い。(メッテルニヒとともに外交の天才と称されることがある。) タレーランは、長年対立関係にあったイギリスとフランスの同盟関係を固め、[[19世紀]]と[[20世紀]]の200年続く両国の協調と同盟の基礎を作った。両国の同盟関係により後の[[第一次世界大戦]]と[[第二次世界大戦]]のフランスを勝利に導いたのはタレーランの外交の遺産であった。
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== 日本語文献 ==
*ジャン・オリユー(''[[:fr:Jean_Orieux|Jean・Orieux]]'')、宮澤泰訳 『タレラン伝』[[藤原書店]]上下、1998年、古典的著書 
:古典的著書、訳は他に訳書は『[[カトリーヌ・ド・メディシス]]』 [[河出書房新社]]上下。また訳者は[[宮澤喜一]]の実弟で外交官
*ダフ・クーパー、曾村保信訳 『タレイラン評伝』 [[中公文庫]]上下、1979年、復刊1991年
:初版[[中央公論社]]1963年、著者''[[:en:Duff_Cooper|Duff・Cooper]]''は[[チャーチル]]の側近で外相を務めた。