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桓温が出征する際には、留守を守る事もあれば従軍することもあり、任せられた職はどれも任に堪え、要職を預かって実績があり、議論に長けていて桓温も能力を認めて厚遇した。しかし、都へ使いに出た際に会稽王司馬昱(後の[[簡文帝 (東晋)|簡文帝]])も彼を重んじたが、桓温が「相王([[丞相]][[録尚書事]]の会稽王)は誰に似た人物か」と習鑿歯に尋ねたところ、「未だあのような方は見たことがありません」と答えたので、桓温は怒って戸曹参軍に左遷し、後に滎陽[[太守]]に出した。
 
桓温は当時簒奪の野望を抱いていたが、郡に居た習鑿歯は『漢晋春秋』54巻を著してそれを正そうとした。『漢晋春秋』は[[後漢]]の[[光武帝]]から[[西晋]]の[[愍帝 (晋)|愍帝]]までの歴史書であるが、[[三国時代 (中国)|三国時代]]については、[[魏 (三国)|魏]]は後漢から[[禅譲]]を受け晋に禅譲しているとはいっても簒奪した逆臣であり、[[司馬昭]]が[[蜀漢]]を平定して初めて漢が滅び晋が興ったものとし、天意は勢力があるからといって強奪できるものではないと主張した。
 
その後、脚の病を患い郷里に帰ったが、襄陽が[[苻堅]]の手に落ちると、苻堅は彼の名を聞いていたので習鑿歯を彼の友人の僧侶道安と共に召し出し、彼らと語り合い厚遇した。習鑿歯は脚を患っていたため、苻堅は「晋が[[呉 (三国)|呉]]を平定した時には陸氏二人を得たが、今我らが漢南を破って得た人物は一人と半分だった」と各地に書を出した。その後、習鑿歯は襄陽に帰った。ついで晋が襄陽を奪還すると、朝廷は習鑿歯に国史編纂を掌らせるため召し出そうとしたが、ちょうどその頃に死亡した。臨終に際して上奏し、魏を僭称者とする自説への反論に反駁した。