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=== 抵抗戦争 ===
 
[[18世紀]]以降、南下政策を進めるロシア帝国は北コーカサスに達し、その過程で北カフカースのムスリムは、異教徒[[ロシア人]]に対する抵抗戦争を始めていた。
 
1834年、全山岳ダゲスタンがシャミールの支配下に入り、1840年、彼は[[チェチェン]]のイマームともなった。当初、シャミールは、権力が確固たるものとなるまでロシアとは中立的な立場を取り、1843年末になって初めて行動を開始した。
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1859年9月15日、シャミールは、[[ハリコフ]]郊外のチュグエフ村でアレクサンドル2世に謁見した。皇帝は、シャミールに金のサーベルを贈り、「最終的にロシアに来てくれたことを非常に喜ばしく思う。もっと早く来てくれなかったことが残念だ。後悔することはないだろう・・・」と語った。
 
投降後、シャミールは、ロシアの各都市において、「カフカーズの[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]」として歓迎された。[[トゥーラ (ロシア)|トゥーラ]]では武器工場を見学し、豪華な武器と名前入りの[[サモワール]]を贈られた。ペテルブルグでは、名誉警衛隊と軍楽隊が出迎え、皇帝の即位式すら凌ぐイルミネーションが灯された。彼がペテルブルグを去る際には、見送りの群集が駅に殺到し、出発が遅れるほどだった。
 
1859年10月、シャミールは、次男のガジ=マホメドと数人の信頼できる盟友と共に、カルーガに転居した。
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メッカ巡礼が許可されないのは、皇帝が自分を疑っているからだと考えたシャミールは、ロシア国籍の取得を皇帝に申し出た。アレクサンドル2世は、この申し出を大いに喜び、アレクサンドラ皇女の結婚式に彼を招待した。1866年8月、シャミールは、息子のガジ=マホメド、マホメド=シャピと共にロシアへの忠誠を宣誓した。皇帝は彼の健康を案じて[[キエフ]]に移ることを勧め、1868年12月、シャミールは家族と共にキエフに転居した。
 
1869年、息子達をロシアに残すという条件で、メッカ巡礼が許可された。シャミールは、[[イスタンブル]]を経由してメッカへ旅し、[[1871年]]、[[メディナ]]で没した。遺体は、[[イスラム]]の偉人たちとともにメディナで葬られた。
 
== 家族 ==
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シャミールの娘達は、1871年までに全員死去した。
 
=== 関連項目 ===
[[Category:チェチェンの人物|しやみる]]
 
[[Category:カフカスの歴史|しやみる]]
*[[カフカーズ戦争]]
[[Category:1797年生|しやみる]]
 
[[Category:1871年没|しやみる]]
{{DEFAULTSORT:しやみる}}
[[Category:チェチェンの人物|しやみる]]
[[Category:ロシア史の人物]]
[[Category:カフカスの歴史|しやみる]]
[[Category:1797年生|しやみる]]
[[Category:1871年没|しやみる]]
 
[[ar:الإمام شامل]]