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==沿革==
鉱山事業家の[[峰村恭平]]が主宰する「'''篁道大教'''」という神道系の団体が母体となっている。篁道大教は「教業一致」を掲げ、鉱山事業を通じて教団の資金を捻出し、義弟の[[峰村三夫]]と組んで、東京[[四谷]]の自宅を拠点に、「御神示」によって経営方針を決定していた。
 
そこに[[大本]]系列の心霊研究団体[[菊花会]]と中国の新宗教・[[世界紅卍字会]]のグループが合流したことで、1941年(昭和16年)に「璽宇」と改めた。[[呉清源]]は紅卍字会のグループに属していた。
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1946年(昭和21年)2月からは[[杉並区]]に本部を構え、[[法人]]の手続きはとならなかったが宗教団体の体裁は整った。璽光尊の住居の移転を「御遷宮」などと称して、同年末「璽宇皇居」を[[石川県]][[金沢市]]に「御遷宮」し、天変地異の預言を盛んに喧伝した。また、この喧伝に動揺した住民が白米等の貴重な食料を持って訪れたといい、璽宇側は、菊の門の下に「松」「竹」「梅」と書いた三種類の私造紙幣を発行し、天変地異が起こった際に通用する様に成ると説いたという。1947年(昭和22年)1月21日に石川県警は世人を惑わすとして「璽宇皇居」を取締りを強行、璽光尊と信者の[[双葉山定次|双葉山]]を食糧管理法違反で逮捕した。
 
この事件を境に教勢は一気に衰え、双葉山がまず璽宇を去った。「璽宇皇居」は[[東京]]・[[横浜]]・[[青森]]・[[箱根]]を転々とする。呉清源夫妻は[[箱根]][[仙石原]]の知人別荘を璽光尊と共にいたが、[[読売新聞]]に縁切りを発表。同別荘を買収した読売側に立ち退きを迫られ、横浜の信者宅に落ち着いたあと、最終的に[[神奈川県]][[藤沢市]]に「御遷宮」した。また、[[ロンドン警視庁]]で[[柔道]]や[[合気道]]を指南していた信者・[[山田専太]]の影響で外国人信者も少数いる。1984年(昭和59年)に璽光尊死後は、1943年(昭和18年)以来璽光尊と共にいた最古参幹部の[[勝木徳次郎]]が[[照観]]の別名で同教の主宰者となるも、宗教活動は殆ど行っておらず、現在も教団自体は存在するが、ほとんど勢力はない。
 
==教団の世界観==