「中国同盟会」の版間の差分

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[[1907年]]、孫文が会員の同意を得ないで、日本政府から資金を受けて日本を離れたことに反発して光復会が離脱した。しかし黄興は孫文の支持を継続した。
 
同盟会は[[清]]朝を打倒しようと何度も各地で蜂起を行ったがことごとく失敗に終わった。特に[[1911年]]の[[黄花崗]]は惨烈を極め、多くの犠牲者を出した。
 
[[武昌起義|武昌蜂起]]では多くの同盟会のメンバーが参加していたが、指導的な役割を果たすことはなかった。[[1912年]]、[[辛亥革命]]後に[[南京市|南京]]に臨時政府が成立すると9人の閣僚のうち3人が同盟会のメンバーだった。しかしこの頃すでに同盟会は四分五裂状態に陥っていた。