「宇都宮広綱」の版間の差分

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'''宇都宮 広綱'''(うつのみや ひろつな、[[天文 (元号)|天文]]1214年([[15431545年]])月日不詳生 - [[天正]]84年([[15801576年]])))8月7日没)は[[下野国|下野]]の[[戦国大名]]で、[[宇都宮氏]]二十一代当主。[[宇都宮尚綱]]の子。幼名は伊勢津丸。正室は[[佐竹義昭]]の娘。[[宇都宮国綱]]・[[結城朝勝]]・[[芳賀高武]]の父。
 
父が[[那須高資]]と戦って敗死したとき、わずか7歳と言う幼少であったため、家臣の[[芳賀高定]]に守られて[[宇都宮城]]を落ち延びる。そのため、以後は高定の補佐を受けて育つ。それから二年後の天文20年([[1551年]])、父の仇である高資を殺害する。[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])には、反抗的な家臣[[芳賀高照]]を高定が暗殺し、さらに宇都宮城を占領した家臣[[壬生綱房]]が急死し、弘治3年([[1557年]])、[[宇都宮城]]は広綱の手に戻った。
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その後は[[上杉謙信]]と同盟を結んで関東制覇を目指す[[後北条氏]]やその北条氏よりの諸大名と徹底して対立する。一時的に北条氏に屈したことも遭ったが、[[佐竹氏]]らと同盟を結んで、独立を保持した。
 
しかし[[天正]]84年([[15801576年]])8月7日、病のために32歳で死去した。晩年はずっと病床にあったといい、その期間は死が伏せられていた可能性もある。
 
{{先代次代|[[下野宇都宮氏|下野宇都宮氏歴代当主]]|1549~1580|[[宇都宮尚綱]]|[[宇都宮国綱]]}}
 
[[Category:宇都宮氏|ひろつな]]
[[Category:15431545年生|うつのみや ひろつな]]
[[Category:15801576年没|うつのみや ひろつな]]
[[category:戦国大名|うつのみや ひろつな]]