「桐壺更衣」の版間の差分

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按察[[大納言]]と北の方との一人娘で、[[桐壺帝]]の[[更衣 (女官)|更衣]]。[[後宮]]では後ろ盾が無いこともあり、局として[[清涼殿]]からもっとも遠く不便な[[淑景舎]](桐壺)を与えられたことから桐壺更衣と称する。早くに父親を亡くしたが、父の遺言を受けた母北の方<!--「あさきゆめみし」では尼姿だが、原文には出家したとの記述はなし-->の尽力により、一族再興の期待を背負って入内した。出家した兄が一人いる(「[[賢木]]」)。
 
特別身分高い出自ではなかったが、桐壺帝の寵愛を一身に受けていたため、他の[[女御]]、更衣たちから疎まれたうえ、彼女らの後ろ盾である重鎮の貴族からは[[楊貴妃]]にあてこすられて、有形無形の嫌がらせを受けた。その心労から病気がちになり、帝の第二皇子(光源氏)を出産するも、源氏が3歳の病状が急変、里下り直後に危篤となりそのまま死去。女御にもできなかったことを後悔した帝により、[[従三位]]を追贈された。
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桐壺更衣の死後、帝の悲しみは深く、「[[楊貴妃]]を亡くした[[玄宗 (唐)|玄宗皇帝]]のような悲しみよう」と言われた。更衣のことを忘れられない帝は、後に更衣に酷似しているといわれる先帝の四の宮を迎える([[藤壺]]。後に[[中宮]]となる)。