「恵那櫻徹」の版間の差分

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== 来歴 ==
県立[[岐阜県立恵那北高等学校|恵那北高校]]を中退後、押尾川部屋に入門。もともとは料理人志望で、中学卒業後は料理の専門学校に通うつもりでいた。入門の動機は、[[押尾川親方]](元[[大関]]・[[大麒麟將能|大麒麟]])から勧誘を受けた時に「力士になれば、[[ちゃんこ鍋|ちゃんこ料理]]を作れるよ」と言われた事だという。なお、父親はタクシー運転手であった。
 
[[1977年]]3月場所に16歳で[[初土俵]]を踏んだ。当初の[[四股名]]は本名の「早川」。同部屋の同期生には[[騏ノ嵐和敏|騏ノ嵐]]、[[佐賀昇博|佐賀昇]]がおり、3人とも[[幕内]]まで出世した(ただし、3人が同時に幕内にいた事はない)。[[1986年]]3月場所、25歳で[[十両]]に昇進。しばらくの十両生活を経て、[[1987年]]11月場所、27歳で新入幕を果たした。入幕時の年齢は27歳であった。その後も順調に昇進し、前頭筆頭まで番付を上げた。[[大関]]・[[横綱]]との対戦経験もあり、横綱には勝てなかったものの、大関・[[KONISHIKI|小錦]]との一番は2戦2勝と一度も負けなかった。他、対大関では[[北天佑勝彦|北天佑]]と[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]]からそれぞれ1勝を挙げている。
 
真面目な性格で稽古熱心。回転のいい突っ張りに威力があったが、現役晩年に肘を痛めた事もあり、[[三役]]にはあと一歩届かなかった。しかし晩年は[[骨折]]を押してまで本場所に出場し、十両優勝を成し遂げた事もあった。