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'''喜連川 尊信'''(きつれがわ たかのぶ、[[1619年]]([[元和 (日本)|元和]]5年)- [[1652年]][[3月17日]]([[承応]]2年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]))は、[[下野国|下野]][[喜連川藩]]の第2代藩主。
 
初代藩主[[喜連川頼氏]]の長男[[喜連川義親]]の長男。母は花房氏([[榊原康政]]の養女)。正室は[[那須資景]]の娘。子に[[喜連川昭氏]](長男)、[[喜連川氏信]](次男)、娘([[福原資敏]]正室)、娘([[天野雄重]]室)。官位は右兵衛督。
 
幼名は千代丸。[[寛永]]4年([[1627年]])に父が祖父より先に死去したため、寛永7年([[1630年]])に祖父が亡くなると、幕命により家督を継ぐこととなった。しかし、[[正保]]4年([[1647年]])藩の主導権をめぐって藩内で[[喜連川騒動]]が発生し、家督を長男・昭氏に譲って[[隠居]]することを余儀なくされた。承応2年(1652年)3月17日、34歳で死去。法号は瑞芳院殿昌山公大居士。
 
{{先代次代|[[喜連川藩|喜連川足利氏(喜連川藩2代)藩主]]|1630~1648|[[喜連川頼氏]]|[[喜連川昭氏]]}}