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|conflict=[[アメリカ独立戦争]]
|date=[[1777年]][[10月4日]]
|place=[[ペンシルニア州|ペンシルニア]]、[[ジャーマンタウン (ペンシルニア州)|ジャーマンタウン]]
|result=[[イギリス軍]]の勝利
|combatant1=[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]
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|casualties2=死者71 傷者450 不明14
|}}
'''ジャーマンタウンの戦い''' (ジャーマンタウンのたたかい、英:''The Battle of Germantown'')は、[[アメリカ独立戦争]]中の[[1777年]][[10月4日]]に[[ペンシルニア州|ペンシルニア]]の[[ジャーマンタウン (ペンシルニア州)|ジャーマンタウン]]で、[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]と[[イギリス軍]]の間で戦われた戦闘である。
 
[[1777年]][[9月26日]]にイギリス軍の[[チャールズ・コーンウォリス]]に[[フィラデルフィア]]を占領された大陸軍は、[[ジョージ・ワシントン]]将軍の指揮でフィラデルフィアの北5マイル (8 km) にあるジャーマンタウンに駐屯していた[[ウィリアム・ハウ]]将軍の9,000名のイギリス軍本隊に攻撃を仕掛けた。攻撃のタイミングを合わせ損ね、また装備も不十分であった大陸軍は攻撃に失敗し、イギリス軍の追及を逃れてホワイトマーシュに撤退した。
 
この戦いの3日後、[[10月7日]]に北方の[[サラトガ (ニューヨーク州)|サラトガ]]では大陸軍が勝利し、その後[[10月17日]]のイギリス北方方面軍の降伏となった([[サラトガ方面作戦]])。ワシントンがハウ軍をペンシルニアに釘付けにしたために、イギリス軍の連携を妨害できたことは大陸軍の戦略的な勝利という考え方もできる。
 
== ジャーマンタウン ==
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イギリス軍の宿営地の様子を探ったワシントンは、大陸軍が資金不足で、訓練が足りず、装備が十分でないにも拘わらず、イギリス軍に急襲を掛けることにした。[[9月11日]]の[[ブランディワインの戦い]]で大敗し、1,000名以上の損害を受けてもワシントンは直ぐにその穴を埋めることができ、ハウは出来ていなかった。大陸軍の動員できる兵力は11,000名おり、ワシントンは今がイギリス軍を叩きのめす絶好の時だと思った。大軍で殺到するのではなく、ワシントンは自軍を4隊に分けた。各隊がジャーマンタウンに複数の道から迫りイギリス軍を包み込み、両翼と中衛を同時に挟み込んで宿営地ごとつぶしてしまう、という作戦だった。
 
大陸軍は[[1777年]][[10月3日]]の日没後にキャンプを発った。第1隊は[[ジョン・アームストロング (大陸軍少将)|ジョン・アームストロング]]将軍のペンシルニア民兵で、ウィッサヒコン・クリークの川岸でクニプハウゼンの宿営地に大砲の弾を打ち込んでから撤退する。残る3隊のうち[[ウィリアム・スモールウッド]]将軍の部隊はスキッパック通りを下ってオールド・ヨーク通りに向かいイギリス軍の右翼を攻撃する。[[ナサニエル・グリーン]]将軍の部隊はアダム・ステファン将軍の師団と[[アレクサンダー・マクドーガル]]将軍の旅団であり、リンプキン通りを進んでイギリス軍の宿営地を襲う手はずであった。
 
丁度日が昇った5時頃、先導役の[[ジョン・サリバン]]隊がエアリー山のイギリス軍哨兵を襲った。ジャーマンタウンのイギリス軍はトーマス・マスグレイブ大佐の第40歩兵連隊であった。数的に劣勢であったイギリス隊は圧倒されるまで戦い続けた後に撤退した。味方とはぐれたマスグレイブとその中隊約120名は、チューハウスという大きな石造りの邸宅に入ってバリケードとした。その家の所有者はベンジャミン・チューという主席判事で、王党派と疑われてバージニアの刑務所に収監されていた。大陸軍のサリバン以下コンウェイや[[アンソニー・ウェイン]]はマスグレイブ隊を迂回し、1マイル (1.6 km) もないイギリス軍宿営地に向かって前進を続けた。
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{{DEFAULTSORT:しやまんたうんのたたかい}}
[[Category:アメリカ合衆国の歴史 (1776-1865)]]
[[Category:ペンシルニア州の歴史]]
[[Category:アメリカ独立戦争の戦闘]]