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しかし[[1860年]]、天津が陥落し、彼が率いるモンゴル騎兵軍は[[通州区|通州]]に撤退した。通州の八里橋で英仏連合軍に惨敗し、モンゴル軍は全滅した。これにより英仏連合軍は[[北京市|北京]]に侵攻し、[[円明園]]が破壊された。センゲリンチンは爵位を失ったが、欽差大臣の職には留まった。アロー戦争が終結すると爵位を回復した。
1860年9月、[[直隷省]]・[[山東省]]一帯で[[捻軍]]が蜂起すると掃討に当たり、山東省・[[河南省]]・[[安徽省]]を転戦した。センゲリンチン軍は
[[1865年]]、山東省曹州[[カ沢市|荷沢県]]の[[高楼寨の戦い]]で[[頼文光]]率いる捻軍に包囲され、全軍が壊滅し、センゲリンチンは戦死した。
センゲリンチンの死後、清朝の軍権は[[満州族]]・モンゴル族の[[八旗]]から[[湘軍]]・[[淮軍]]のもとに帰
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