「クインティリアヌス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
2行目:
 
==生涯==
クインティリアヌスは、ヒスパニアのカラグリス(現[[ラ・リオハ州]][[カラオラ([[:en:Calahorra]]))に生まれた。父親は教養ある人物で、息子を[[ネロ]]が統治してまもない[[ローマ]]に修辞学(レトリック)の勉強のため留学させた。そこでクインティリアヌスはドミティウス・アフェル([[:en:Domitius Afer]])との親交を築いた。「それが常の習わしであった……公生活の中で野心を抱く若者たちが、その手本を先達に求めることが……そして、その人を師と見なすことが」<ref>Kennedy, 16</ref>。明らかにクインティリアヌスはアフェルを自分の手本として、その弁論を聴き、法廷で裁判の弁護をした。アフェルは[[セネカ]]の時代の一般的な弁論家よりも厳格かつ古典的で、キケロ風の弁論家だったと言われている。クインティリアヌスの[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]への敬愛はおそらく、このアフェルによって導かれたのであろう。
 
[[59年]]にアフェルが死んだ後、クインティリアヌスはいったんスペインに戻った。おそらく、出身地の法廷で法律の経験を積むためだったと思われる。[[68年]]、クインティリアヌスはネロの後継皇帝[[ガルバ]]の随員としてローマに戻った。とはいえ、ガルバの側近ではなかったようで、翌[[69年]]にガルバが権力争いで殺された後もクインティリアヌスは無事生き残ることができた。