「アフォンソ5世 (ポルトガル王)」の版間の差分

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[[1443年]]、ドゥアルテ1世の弟[[フェルナンド聖王子|フェルナンド王子]]が[[フェズ]]で獄死した。遺骸は城壁から逆さに吊り下げられた。従者たちは遺骸をもらい受けると、遺骨に塩をふりかけ、壷に入れて埋葬した。アフォンソ5世は捕虜にした[[モロッコ]]の貴族たちと交換に、叔父フェルナンド王子の遺骸を取り戻し、1452年[[バターリャ修道院]]に埋葬した。
 
[[1446年]]、アフォンソ5世は14歳で親政を始めた。もう一人の叔父[[エンリケ航海王子]]の斡旋により、コインブラ公は政治顧問に退き、国政の実権はブラガンサ公とその息子オウレン伯アフォンソへ移った。[[1448年]]、コインブラ公の娘で従妹である[[イサベル・デ・コインブラ|イサベル]]と結婚する。2人の間には夭逝した王子ジョアン(1451年)、[[列聖]]された王女[[ジョアナ・デ・ポルトゥガル|ジョアナ]](1452年 - 1490年)、王位を継承した[[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン2世]]の3子が生まれた
 
[[1449年]]、領地の[[コインブラ]]の通過をブラガンサ公に認めなかったコインブラ公の措置にアフォンソ5世は怒り、国軍を派遣してコインブラ公を戦死に追い込んだ。
[[1458年]]、アフォンソ5世はアルカセル・セゲールを征服した。[[1474年]]には[[アルジラ]]、[[タンジェ]]を征服した。これにより、モロッコで[[セウタ]]他4都市を掌握するアフリカ・ポルトガル帝国を形成、'''ポルトガル・アルガルヴェ、アフリカ海内海外王'''を名乗った。
 
同年、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王[[エンリケ4世 (カスティーリャ王)|エンリケ4世]]の死去により、エンリケの異母妹イサベル(後の[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]])とエンリケの長女[[フアナ・ラ・ベルトラネーハ]]王女との間に、王位を巡って抗争が起こった。フアナは、妃に先立たれて独身だったアフォンソ5世と婚約し、その救援を求めた。43歳の叔父と14歳の姪との結婚でも、教皇の許可を取得すれば可能だった。アフォンソ5世は、この結婚でカスティーリャ・ポルトガルの両国王になれると乗り気になり、王太子[[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン]]も同意したので、2万の兵を率いてカスティーリャへ侵攻した。しかし、カスティーリャ人と軍の大半は、出自の明らかでないフアナよりも、[[アラゴン王国|アラゴン]]王太子妃となったイサベルを支持していたため、[[1476年]]3月のトロの戦いで敗れた。膠着状態に陥った継承戦争のさなか、アフォンソ5世はフランスに赴いて[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]の援助を求めたが失敗した。教皇庁からも結婚の許可はついに出なかった。
 
[[1477年]]7月、アルカソヴァ条約により戦争は終結した。条約の内容は次の通りであった。
#アフォンソ5世はフアナとの結婚を解消し、カスティーリャ王位継承請求権を放棄する。
#フアナはカスティーリャの王位継承者[[アストゥリアス公]][[フアン王子 (アストゥリアス公)|フアン]](カトリック両王の長男)と将来結婚するか、あるいは修道院に入るか、半年以内に決める。
#ポルトガル王太子ジョアンの長男アフォンソ王子とカスティーリャ王女[[イサベル・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ|イサベル]](カトリック両王の長女)の婚約。
#フアナに味方して戦ったカスティーリャ人に恩赦を与える。
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