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'''堀田 仁助'''(ほった にすけ、[[延享]]4年([[1747年]]) - [[文政]]12年[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]([[1829年]][[10月2日]])は、現在の[[広島県日本]][[廿日市市江戸時代]]出身の[[男性天文学者]]。[[江戸幕府]][[天文学者]]で編暦・測量を行った。堀田の[[蝦夷地|蝦夷]]航路測量により、[[伊能忠敬]]の蝦夷地測量が実現した
 
== 生涯 ==
[[津和野藩]]士堀田嘉助の子として津和野藩御船屋敷(廿日市蔵屋敷=現存せず、現[[広島県]][[廿日市市]])にて誕生。幼少より学問に秀で、13歳にして御船手役所筆役見習として採用された。15歳で城下町津和野に移り、勘定書見習として務する。
 
[[天明]]3年([[1783年]])6月、幕府[[天文方]]属員となり暦作御用として天文方である渋川を補佐し、暦制作に携わる。[[寛政]]11年([[1799年]])には幕府天文方として東[[蝦夷地|蝦夷]]への直通航路を開拓するため測量を命じられ、完成させる。寛政12年([[1800年]])に[[伊能忠敬]]が蝦夷地へ測量を行うが、堀田の航路開拓なしには成し遂げられないものであったとされる
 
[[文政]]10年([[1827年]])、81歳にして幕府のお役目から身を退し津和野へ帰藩する。帰藩後は、[[藩校]][[養老館]]教授となり、多くの若者に関流数学を教授した。帰藩してから2年後の文政12年(1829年)に長い生涯を閉じた。
 
仁助が制作した天球儀、地球儀は[[島根県]]指定の文化財として[[太鼓谷稲成神社]]の宝物殿にある。