「バレンシア王国」の版間の差分

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1479年、[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]がアラゴン王に即位した。彼は既にカスティーリャ女王[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]と結婚しており、これにより現代のスペイン王国が誕生した。バレンシアはスペインの残りとの統合のゆっくりとした過程を歩み始めた。[[カトリック両王]]の孫である[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]]が王位に就いたとき、アラゴンとカスティーリャは同君連合の中で永久に一つになった。スペイン・ハプスブルク家歴代の王(1516年1月23日 - 1700年11月1日)は、王国とその法構造を形成する領域・都市の特権と自由を守り、事実それらは無傷のままであった。新たな役職であるバレンシア[[副王]]が、公式な独立王国を統治するため創設された。一方で、台頭するスペイン帝国はイベリア半島の王国としてのかつての地位を残し、[[列強]]として現れた。スペイン帝国は、イベリア半島内の領土よりむしろ、[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|アメリカ大陸植民地化]]とヨーロッパ大陸での領地に焦点を移した。
 
16世紀のバレンシアは、北欧・中欧で急速に発展する都市に対し、ヨーロッパで突出した商業中心地としての地位を失った。スペイン国内では、[[大西洋]]貿易が[[カディス]]のようなアンダルシア諸都市で支持された。これは主として、地中海貿易からの利益が減少していたためであった。スペイン帝国は、東地中海の大半を勢力下においた[[オスマン帝国]]と頻繁に対立していた。[[バルバロス・ハイレディン]]のような[[私掠船]]船長が貿易船を掠奪する間、トルコ軍は、スペイン、トルコの両方の船が特定の港に到着するのを妨害していた。[[トゥルグト・レイス]]のようなバルバリア海賊は、[[チュニス]]、[[トリポリ (リビア)|トリポリ]]、[[アルジェ]]、モロッコ港のサーレで活動し、西地中海で船舶を襲っていた。これには、沿岸沿いのキリスト教国港での破滅的な急襲が含まれていた。この貿易の衰退が、既に1492年の[[アルハンブラ勅令]]([[ユダヤ人]]を追放した)によって経済的影響を受けていた、バレンシアでの経済の妨げとなった。
 
1519年、若いカルロス1世がヘルマニア([[:en:Germania (guild)|en]]、友愛団体とも)にイスラム侵略者を退ける役割を与えた。ヘルマニアとは、最初は政府の許可を得て海賊襲撃と戦闘に参加する民兵として用いられた職人[[ギルド]]であった。しかし、ヘルマニアにも経済課題があった。上流階級と衝突した一般市民が支配するギルドに、味方することがあったのである。ディエゴ・ウルタド・デ・メンドーサがバレンシア副王に任命された後、1520年に彼は、ヘルマニアを支持した当局にその地位を拒絶された。[[ヘルマニア反乱]]はこうして起きた。それは1522年まで続き、同時期にカスティーリャで起きた[[コムネロスの反乱]]と多くの特徴を共有していた。上流階級の経済的な恨みは別として、反乱は強い反イスラムの側面、迷信的な民衆がイスラム教徒・同性愛者や、(当時、都市を打ちのめした流行病のため)社会から見放された者を非難するという側面を持っていた。上流階級の広大な農場で働き、乏しい仕事のためにバレンシア人の競争者となって彼らの給料を下げることになった[[ムデハル]]は、上流階級の同盟者とみなされた。反乱の間、多くのイスラム教徒が殺害され、生存者は強制的に洗礼を施された。ヘルマニア反乱が制圧された後でさえ、これらの強制改宗は有効であるとされ、モリスコの新たな反乱を招いた。