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{{中華圏の人物
'''竜 済光'''(りゅう さいこう、[[簡体字]]:'''{{lang|zh|龙济光}}'''、[[繁体字]]:'''{{lang|zh-tw|龍濟光}}'''、[[ピンイン]]:{{lang|zh|Lóng Jìguāng}}、[[1866年]]<ref>孫代興「竜済光」謝本書主編『西南十軍閥』(上海人民出版社、1993年)は、1866年生まれをとり、徐友春主編『民国人物大辞典』(河北人民出版社、1991年)は、1876年生まれをとっている。しかし、本記事では、事跡との整合性を考慮し、前者をとる。</ref> - [[1925年]][[3月12日]])は、[[中国]]の[[清]]代末期から[[中華民国]]時代にかけての軍人、政治家。字は'''子誠'''(または、'''紫丞'''、'''子澄''')。[[ハニ族]](哈尼族)<ref>『民国人物大辞典』は[[イー族]](彝族)としている。</ref>。[[雲南省]][[紅河ハニ族イ族自治州|蒙自県]]出身。民国初期に[[広東省]]を支配した軍人政治家(軍閥指導者)である。
| 名前=竜済光
| 画像=
| 画像の説明=
| 出生=[[1866年]]<ref>孫代興「竜済光」謝本書主編『西南十軍閥』(上海人民出版社、1993年)は、1866年生まれをとり、徐友春主編『民国人物大辞典』(河北人民出版社、1991年)は、1876年生まれをとっている。しかし、本記事では、事跡との整合性を考慮し、前者をとる。</ref>
| 死去=[[1925年]][[3月12日]]
| 出身地=[[雲南省]][[紅河ハニ族イ族自治州|蒙自県]]
| 職業=軍人・政治家
| 簡体字=龙济光
| 繁体字=龍濟光
| ピン音=Lóng Jìguāng
| 通用=
| 注音=
| 注音二式=
| 和名=りゅう さいこう
| 発音=ロン ジーグアン
}}
 
'''竜済光'''(りゅう さいこう)は[[清|清末]][[中華民国|民初]]の軍人、政治家。民国初期に[[広東省]]を支配した軍人政治家(軍閥指導者)である。字は'''子誠'''(または、'''紫丞'''、'''子澄''')[[ハニ族]](哈尼族)<ref>『民国人物大辞典』は[[イー族]](彝族)としている。</ref>。出身。
 
== 事跡 ==
=== 清末から辛亥革命まで ===
雲南省蒙自県のハニ族の[[土司]]の家庭に生まれる。成年になると、土司の家柄により、[[昆明市|昆明]]で官位に就いた。[[光緒]]14年([[1889年]])、故郷に戻り、[[団練]]を組織した。光緒30年([[1904年]](光緒30年)1月、[[広西チワン族自治区|広西省]]で発生した[[会党]]の大規模な蜂起を鎮圧するため、竜済光は[[両広総督]][[岑春ケン|岑春煊]]の動員に応じて広西入りした。陸栄廷とともに会党鎮圧に貢献し、その軍功により、光緒31年([[1905年]](光緒31年)6月に署理広西右江道に任命された。光緒33年([[1907年]](光緒33年)12月、[[孫文]]が鎮南関蜂起を起こすと、竜済光は[[陸栄廷]]とともにこれを鎮圧し、その軍功で署理広西[[提督 (清朝)|提督]]に就任した。
 
[[宣統1911年]]3年([[1911年宣統]]3年)4月、竜済光は革命派鎮圧のため広東省へ遷る。同年11月、広東で革命派が[[武昌起義]]に呼応して独立しようとすると、竜済光を副都督として取り込もうとしたが、竜は省独立を拒否した。その後、[[胡漢民]]・[[陳炯明]]らが広東での蜂起に成功すると、竜済光はいったん綏靖処副経略に任命された。しかし、[[1913年]]([[中華民国暦|民国]]2年(1913年)に陳炯明らが第二革命(二次革命)を発動すると、竜済光は[[袁世凱]]から広東鎮撫使に任命され、陳を駆逐して広東省の統治権を掌握した。同年8月、広東都督兼署民政長に正式に任命されている。民国3年([[1914年]](民国3年)6月、振武上将軍督理広東軍務に任命された。
 
=== 護国戦争での敗北 ===
民国4年([[1915年]](民国4年)、竜済光は袁世凱の皇帝即位を支持し、同年12月25日に勃発した護国戦争([[第三革命]])では、護国軍討伐に動いた。翌民国5年([[1916年]])11月28日には、袁世凱から「郡王」に封じられている。しかし、3月15日に広西省の陸栄廷が独立を宣言し、さらにその1週間後の22日に袁世凱が皇帝即位の取消しを宣言すると、竜済光は南方で孤立していく。護国軍の[[李烈キン|李烈鈞]]や陸栄廷の脅威に屈する形で、4月6日、竜済光は広東独立を宣言した。6月6日に袁世凱が病死すると、その3日後に竜済光は独立を取り消して[[北京政府]]への忠誠を宣言したが、李烈鈞・陸栄廷の攻勢は続き、遂に同年10月、陸栄廷軍が[[広州市|広州]]入りし、竜済光は[[海南島]]へ逃亡した。
 
その後、民国6年([[1917年]](民国6年)11月、竜済光は北京政府から両広巡閲使に任命され、孫文の護法運動に反対し、広州の陸栄廷を攻撃した。しかし、民国7年([[1918年]](民国7年)3月、李烈鈞の討伐を受け、同年5月には竜済光は広東から駆逐され、[[北京市|北京]]へ逃げ込んだ。
 
その後、北京政府の[[段祺瑞]]の庇護を受ける形で、[[天津市|天津]]で振武軍と呼ばれる軍を組織したが、この軍も民国9年([[1920年]](民国9年)7月の[[安直戦争]]で壊滅してしまう。これにより、竜済光は政治的・軍事的影響を完全に喪失した。
 
民国14年([[1925年]](民国14年)3月12日、北京で死去。享年60。
 
== 注 ==