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== 概要 ==
阿須賀神社は、[[熊野川]]河口近くにある蓬莱山と呼ばれる小丘陵の南麓に鎮座する。古くは飛鳥社とも称された。蓬莱山は南北100メートル、東西50メートル、標高48メートルの椀を伏せたような山容で、神奈備の典型とも言うべき姿をしている<ref name="shingu_30">新宮市教育委員会・新宮市文化財審議会[1990: 30]</ref>。[[熊野速玉大社]]伝の古文書「新宮本社末社総目録」<ref>新宮市[1984: 923-930]</ref>に上御備・下御備の祭祀遺跡が描かれているように、古くから信仰の対象となっていたと見られる<ref name="shingu_30"/>。また、熊野の地において[[熊野権現]]はまず[[神倉神社]]に降臨し、それから61年後に阿須賀神社北側にある石淵(いわぶち)谷<ref>今日の[[貴禰谷神社]]と考えられている[平凡社 1997: 221]。</ref>に勧請されて、その時に初めて結早玉家津美御子と称したと伝えられており、熊野権現の具体的な神名がはじめて現れた場所と見なされていたことが分かる(「熊野権現垂迹縁起」)<ref name="Heibon_1997_53">平凡社[1997: 53]</ref>。その他、境内からは[[弥生時代]]の遺跡が発掘されて([[#阿須賀遺跡|後述]])おり、熊野における歴史と信仰の最も古い層に関わる地として重要である。
 
社伝によれば[[孝昭天皇]]の代の創建と伝えられる<ref name="Heibon_1997_53"/>。[[平安時代]]に熊野権現の[[本地垂迹|本地]]が確立してからは、[[大威徳明王]]を本地仏として祀った。平安時代後期から12世紀前半までの中世熊野参詣では、阿須賀神社に参詣することが常であったと見られ、『[[中右記]]』の[[天仁]]2年([[1109年]])10月27日条に「参阿須賀王子奉幣」と記され、王子社としての扱いを受けていたことが分かる。また、『[[平家物語]]』巻十には[[平惟盛]]が[[新宮市|新宮]]で「明日社ふし拝み」と記され、阿須賀神社への参拝が一般的なことがらであったことが認められる。