「ジョン・ショウ・ビリングス」の版間の差分

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江口磐世☆ (会話 | 投稿記録)
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北軍勝利の流れが固まった[[1864年]][[12月27日]](戦争終結4ヶ月前)、ビリングスは[[アメリカ合衆国軍医総監局]]([[:en:Surgeon General of the United States|en]])に配属され、戦後に余剰となる医師や病院職員の再就職担当となった。戦争終結直後は多忙であったが、職務自体は単純でなおかつ次第に仕事自体も減っていった。そのため、[[1865年]]秋に入ると、彼は同局の図書館の責任者である館長を兼ねた。折りしも戦争のための軍事予算の余剰分のうち8万5千ドルが図書館の整備費に転用が認められた。彼はその購入責任者となったが、以前からあった資料の整理も十分には行われていなかった上に彼が厳選した大量の新規蔵書や論文などが入ったためにその整理が問題となった(1865年当時、1800冊しかなかった蔵書は1880年には5万冊の書籍と6万冊の小冊子を抱えるまでになっていた)。ビリングスは単に整理するだけではなく、主題索引を作成して適切な資料を見つけ出せるようにしなければ意味を成さないと考え、目録及び作成作業に尽力した。10年の歳月をかけて[[1876年]]に彼は軍医総監局図書館目録「Specimen Fasciculus of a Catalogue of the National Medical Library」を完成させた。これは1000ページの本10冊分にあたるもので、彼はそれまでに目録作成のために40万枚に及ぶ主題別の索引カードを作成していた(その中には[[ロシア語]]や[[日本語]]の資料も存在していたが、それらについての解説も付けられていた)。この意義が議会に認められて2万ドルの予算が与えられ、[[1880年]]に「Index Catalogue of the Surgeon General's Office」として刊行されることとなった。「Index Catalogue of the Surgeon General's Office」は全16冊の一大目録となり、[[1895年]]になって漸く最終巻を刊行することが出来た。1876年にビリングスの部下として配属されたイギリス生まれの[[ロバート・フレッチャー]](Robert Fletcher)はビリングスのよき片腕となった。ビリングスとフレッチャーはビリングスが以前から計画していた月刊の医学文献索引の作成にもあたり、[[1879年]]より「Index Medicus」として刊行された。フレッチャーはビリングスの退官後もその後継者として事業を引き継いだが、[[1898年]]にはビリングスとフレッチャーの私的な側面が大きかった「Index Medicus」の刊行断念を余儀なくされた。だが、後述の事情によって[[1903年]]より[[カーネギー研究所]]の支援を受けて再開され、[[2004年]]まで続けられた。
 
ビリングスが軍医総監局にいた時代に彼は目録作成以外の面でも功績を挙げている。軍事医学や公衆衛生に関する分野を中心として150篇にも及ぶ論文(退官後の図書館関係のものも含めると171篇にのぼる)を発表してアメリカにおける[[衛生学]]の草分け的存在として評価されている他、[[顕微鏡]]による[[微生物]]研究にも力を注ぎ、アメリカにおける[[顕微鏡写真]]の第一人者として知られており、[[1893年]]の[[コロンビア博覧会]]において彼の研究成果の出展が行われている。また、[[1889年]]に[[ジョンズ・ホプキンス大学]]の付属病院として開設された[[ジョンズ・ホプキンス病院]]([[:en:Johns Hopkins Hospital|en]])の設計デザインを引き受け、当時望みうる最高の衛生環境を備えた病院を作り上げ、更に[[1887年]]に新築された新しい図書館([[:en:Army Medical Museum and Library|en]])の設計も彼が行っている(なお、軍医総監局図書館は[[1867年]]以来、[[エイブラハム・リンカーン]]が[[暗殺]]されたことで知られる[[フォード劇場]]の一郭に置かれていたが、彼はこの施設に不満を抱いて早くから図書館新築に動いていた。結果的に図書館のあった部分は新館への移転から6年後に崩落事故を起こして多数の死者を出している)。更に[[ペンシルニア大学]]の衛生学研究所の設計も行い、同校において衛生学の講師も務めた。彼は1879年に全国健康局の副総裁に任命されて[[国勢調査]]や[[黄熱病]]対策にあたった。この時の部下が[[ハーマン・ホレリス]]で、後にビリングスがホレリスと統計の機械的処理の可能性について意見を交わし、ホレリスの[[タビュレーティングマシン]]発明のきっかけを与えたとされている。1886年にはワシントン哲学協会会長にも就任している。
 
こうした業績に対して、1889年に[[オックスフォード大学]]が、2年後には[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|ダブリン・トリニティ・カレッジ]]が彼に名誉医学博士の称号を授けた。だが、多くの名声を得ていたにも関わらず、彼は軍医総監代理の地位に留まり、遂に総監に昇ることないまま、1895年9月に退官することになり、[[11月30日]]には[[フィラデルフィア]]で盛大なセレモニーが行われた。ビリングスにとっての唯一の心残りは、かつて自分が作成した軍医総監局図書館目録の最初の名称に「the National Medical Library」すなわち「国立医学図書館」の呼称を用いたように、軍医総監局図書館を国立の医学図書館として発展させる構想を実現できなかったことであった。ビリングスの構想が実現するのは彼の没後のことである。
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[[Category:アメリカ合衆国の医学者]]
[[Category:インディアナ州の人物]]
[[Category:南北戦争]]
[[Category:1838年生]]
[[Category:1913年没]]
[[Category:南北戦争]]
 
[[en:John Shaw Billings]]