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'''竇建徳'''(とうけんとく)は[[隋|隋末]][[唐|唐初]]に割拠した群雄の一人。清河郡漳南県(現在の[[河北省]][[故城市]]東北)の人。
 
竇建徳は、代々農村で里長を務める家に生まれた。[[611年]]、[[煬帝]]が[[高句麗]]遠征の徴発を行った際に二百人長に選抜された。[[孫安祖]]の叛乱に連座し、一族が誅殺されると、高鶏泊起義の指導者[[高士達]]の下に身を寄せた。高士達の死後は、その軍勢を率いて饒陽(現在の河北省[[衡水市]])を攻撃し、平原(現在の[[山東省]][[徳州市]]陵県)を占拠した。部下を大切に扱い、また戦闘後の虐殺も行わなかったことから民衆の支持を得て、その軍は10万にも達した。
 
[[619年]]、楽寿(現在の河北省[[滄州市]]献県)にて長楽王を自称し、独自の元号として[[丁丑 (夏)|丁丑]]を建て、積極的に領土拡大を行った。煬帝は[[薛世雄]]に命じ3万の軍勢で討伐しようとするが、竇建徳軍の待ち伏せに遭い壊滅した。こうして河北の殆どの地域が竇建徳の統治下に置かれることとなった。[[618年]]、竇建徳は[[夏 (隋末) |夏]]王を称し[[五鳳 (夏)|五鳳]]と改元、8月には洺州(現在の河北省[[永年市]])に遷都した。
 
[[619年]]、[[王世充]]が[[楊侗]]を廃し皇帝を自称すると、竇建徳もまた朝廷を整備していく(ただし夏王の称号を使用)。[[621年]]、[[太宗 (唐)|李世民]]が王世充の拠点である[[洛陽]]を攻撃すると、王世充の要請を容れて竇建徳も出兵するが、虎牢関(現在の[[河南省]][[ケイ陽市|滎陽市]])で李世民の軍に破れて捕らえられ、[[長安]]で処刑された。
 
竇建徳が処刑されたことにより、夏の残存勢力を中心として[[劉黒闥]]が自立し、河北の混乱が続くこととなった。