「パナマ運河疑獄」の版間の差分

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'''パナマ運河疑獄'''(-うんがぎごく)または'''パナマ事件'''(-じけん)とは、[[フランス]][[第三共和制]]下で起きた[[パナマ運河]]建設会社の破綻と、それに端を発した[[疑獄]]事件である。
 
==概要==
[[1879年]]、[[フェルディナン・ド・レセップス]]は[[ギュスターヴ・エッフェル]]らの協力を得てパナマ運河会社を設立し、パナマ[[運河]]の建設に着手した。しかし難工事、[[黄熱病]]、[[放漫経営]]により工事は中断された。[[1888年]]には、政府の許可を得て[[宝くじ]]付き[[債券]]を発行し資金を賄ったが、翌年には破綻が宣告された。
 
政府は工事を続行するために新会社を設立して運河会社の清算を進め、1890年には[[コロンビア]]との契約が更新された(しかしフランスによる建設は失敗し、[[20世紀]]に入り[[アメリカ合衆国]]に売却されることになる)。[[1892年]]には[[清算]]処理方針が決まり、約80万人の一般国民が買った債券は紙切れとなった。
 
同じ1892年、宝くじ付き債券許可にからみ、[[ジョルジュ・クレマンソー]]ら多数の大臣が運河会社から[[賄賂]]を受けていたと新聞が報じた。続いて[[レオン・ブルジョワ]]ら6人の大臣を含む510人の政治家が、運河会社の破産状態を公表しない見返りに収賄したとして告訴された。しかし政治家は、前開発大臣が有罪判決を受けただけで大多数が無罪となった。議会にも調査委員会が設けられ、104人が[[収賄]]したとされたが、彼らは結局訴追されなかった。
 
またレセップスとその息子およびエッフェルが[[背任]][[詐欺]]の罪で訴えられ有罪判決を受けたが、上訴審では無罪となった。レセップスは精神錯乱の末1894年に病死した。
 
贈賄工作に直接関わったのは財務顧問のレーナック(Jacques Reinach)とエルツ(Cornelius Herz)で、レーナックは右派を、エルツは急進派を担当していた。しかし2人の対立からレーナックは贈賄先リストを新聞に持ち込んで事件発覚のきっかけを作り、その後自殺した。エルツらはイギリスに逃亡した。2人はいずれもドイツ系[[ユダヤ人]]であったことから、国粋・[[反ユダヤ主義]]的新聞はこれを利用して大衆の反ユダヤ感情を煽り立て、それが[[ドレフュス事件]]につながったともいわれる。
 
クレマンソーはエルツと関係があったため[[1893年]]の選挙で敗れ、一旦政界から身を引いた。この事件により3内閣が倒れ、大衆の政治家不信に火をつけた。
 
==参考文献==
*[[ハンナ・アーレント]]『全体主義の起源』
 
[[Category{{DEFAULTSORT:フランスの歴史|はなまうんかきこく]]}}
[[Category:フランスの事件|はなまうんかきこく歴史]]
[[Category:フランスの事件]]
[[Category:パナマの歴史]]
[[Category:汚職事件]]
 
[[de:Panamaskandal]]
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