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[[画像:Umaya bashi old.jpg|thumb|256px|1893年完成の旧鉄橋]]
{{mapplot|139.7950|35.7044|厩橋}}
'''厩橋'''(うまやばし)は、[[隅田川]]にかかる[[橋]]で、[[東京都道453号本郷亀戸線]]([[春日通り]])を通す。西岸は[[台東区]]蔵前二丁目、および駒形二丁目を分かち、東岸は[[墨田区]]本所一丁目。橋名は西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵のための荷駄馬用の厩があった)」にちなみ、また橋全体に馬を連想させるレリーフなどが施されている
 
== 解説 ==
もともと[[元禄]]年間ごろから続いていた「[[隅田川の渡し|御厩の渡し]]」のあった場所である。[[1872年]]([[明治]]5年)に花見客の人出でこの渡し舟が転覆する事故があった。以前から転覆事故が多く「三途の渡し」と揶揄されていたこともあり、民間の手により架橋されることとなる。[[1874年]](明治7年)10月6日完成。長さ511尺(約150m)、幅20尺(約6m)の木橋であったと伝えられる。現在よりも約100mほど下流の位置であった。
西岸は[[台東区]]蔵前二丁目、および駒形二丁目を分かち、東岸は[[墨田区]]本所一丁目。橋名は西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵のための荷駄馬用の厩があった)」にちなみ、また橋全体に馬を連想させるレリーフなどが施されている。
 
もともと[[元禄]]年間ごろから続いていた「[[隅田川の渡し|御厩の渡し]]」のあった場所である。
この橋は老朽化のために東京府によって鉄橋に架け替えられる。プラットトラス形式で長さ86間(約154m)。[[1893年]](明治26年)5月6日に完成した。またこの厩橋鉄橋の建設に伴って[[1890年]](明治23年)には現在の春日通りも建設計画が持ち上がった。当時の厩橋近辺は湿地帯で沼地が多く広い道がなかったためで、本所方面から上野広小路に直接接続できるべく東西に結ばれた。しかしながら土地買収や立ち退き交渉などで難航し、開通は[[1895年]](明治28年)になってからである。のち[[関東大震災]]により被災し、復興計画により現在の橋が架橋された。
 
{{和暦|1872}}に花見客の人出でこの渡し舟が転覆する事故があった。以前から転覆事故が多く「三途の渡し」と揶揄されていたこともあり、民間の手により架橋されることとなる。
 
{{和暦|1874}}[[10月6日]]完成。長さ511尺(約150m)、幅20尺(約6m)の木橋であったと伝えられる。現在よりも約100mほど下流の位置であった。
 
この橋は老朽化のために東京府によって鉄橋に架け替えられる。プラットトラス形式で長さ86間(約154m)。
 
この橋は老朽化のために東京府によって鉄橋に架け替えられる。プラットトラス形式で長さ86間(約154m)。{{和暦|1893}}[[1893年]](明治26年)55月6日]]に完成した。またこの厩橋鉄橋の建設に伴って[[{{和暦|1890年]](明治23年)}}には現在の春日通りも建設計画が持ち上がった。当時の厩橋近辺は湿地帯で沼地が多く広い道がなかったためで、本所方面から上野広小路に直接接続できるべく東西に結ばれた。しかしながら土地買収や立ち退き交渉などで難航し、開通は[[{{和暦|1895年]](明治28年)}}になってからである。のち[[関東大震災]]により被災し、復興計画により現在の橋が架橋された。
 
付近地下に[[都営地下鉄大江戸線]]が通っているが、上下線が厩橋を避けるように挟んで迂回している。戦時中は橋を爆撃された際に地下の鉄道が影響を受けないようにわざと避けて敷設するという鉄則に現代でもあえて従ったためとも、橋台に影響を与えないためともいわれているが、詳しくは不明である。