「ピエール・シャルル・ランファン」の版間の差分

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m (ロボットによる 追加: pt:Pierre Charles L'Enfant)
[[1901年]][[マクミラン委員会]]は、[[ナショナル・モール]]建設の計画を立てる[[1902年]]の報告書の基礎として、ランファンの建設計画を起用した。フランス大使ジャン・ジュール・ジュスランの扇動で、ランファンの計画案は国に採択され遂に彼はその功績が認められたのである。[[1909年]]に[[アメリカ合衆国議会議事堂]]のロタンダ内で葬式が行われた後、ランファンの遺骨は彼が一部をデザインした首都を見渡す、[[アーリントン国立墓地]]の丘に再び埋葬された。1911年、彼の墓の上に記念碑が置かれると共に栄誉を授かった。この記念碑に刻まれているのは、アンドリュー・エリコットが書き変える前の、ランファン自身が計画した設計案の一部である。
 
また、ランファンの何十年にも渡るリチャード・ソーデルストロームとの関係が始まったのは[[1794年]]のことであった。歴史研究家達は性的な関係にあったのではと議論するが、少なくとも二人は[[ペンシルニア州]][[フィラデルフィア]]近くにある生活住居を共有し、仕事も協力し合っていたことは確かである。しかし[[1801年]]、ソーデルストロームは住居を共有していたランファンに生活費を請求し、法的な争いが生じた。
 
そのほか、[[1942年]]には「ピエール・ランファン」という名のアメリカ合衆国[[リバティ船]]が航行を開始しているが、[[1970年]]に船は難破し、遺棄されている。
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