「太田資顕」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Arawodas (会話 | 投稿記録)
生年の出典が長期間示されないため除去
1行目:
'''太田 資顕'''(おおた すけあき、[[永正]]17年([[1520年]]){{要出典}}? - [[天文 (元号)|天文]]16年([[1547年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。別名は資時(すけとき)。左京亮。信濃守。[[号]]は'''全鑑'''(ぜんかん)。[[太田道灌]]の曾孫で、[[太田資頼]]の嫡男。[[太田資正]]の兄に当たる。妻は[[成田親泰]]の娘。娘は[[上杉憲盛]][[正室]]。
 
父や弟と共に[[扇谷上杉氏]]に仕えた。[[1533年]]、父の[[隠居]]により家督を相続した。主家の衰退に伴い[[後北条氏]]との関係を次第に強めていき、天文15年([[1546年]])3月には北条氏に「逐日入魂」していたとされる。直後の同年4月、[[河越夜戦]]で主君・[[上杉朝定]]が[[北条氏康]]に敗れて戦死したため、正式に後北条氏の家臣となった。また、[[臨済宗]]を篤く信じていたといわれる。
 
天文16年10月9日死去。享年は不詳だが、没時にはすでに孫がいた<ref>資顕の娘は[[遠山綱景]]の嫡子藤九郎に嫁いで一女を生んだが、藤九郎が21歳で早世したため母子とも資顕(当時は出家して全鑑)に引き取られた。資顕没後反北条派の資正が当主となったため、資顕の妻と合わせて三人とも[[成田長泰]]に引き取られた。その後資顕の娘(遠山藤九郎妻)は上杉憲盛に再嫁し、藤九郎の娘は[[成田長親]](長泰の弟[[成田泰季|泰季]]の子)の妻となった。</ref>。男子がいなかったため、家督は弟の資正が継承した。
 
== 脚注 ==
<references/>
 
==参考文献==
*黒田基樹『扇谷上杉氏と太田道潅』(岩田書院、2004年) ISBN 4872943269
 
{{先代次代|[[太田氏|岩槻太田家当主]]|太田資顕|[[太田資頼]]|[[太田資正]]}}
14 ⟶ 16行目:
[[Category:太田氏|すけあき]]
[[Category:戦国武将]]
[[Category:1520年生]]
[[Category:1547年没]]