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== 来歴 ==
=== 出生から中学まで ===
[[1902年]][[1月2日]]、[[東京府]][[東京市]]下谷区谷中清水町で国文学者で国語教師でもある山内素行の長男として生まれた。名前の「清男」は[[記紀]]において[[スサノオ]]が[[ヤマタノオロチ]]を倒した時の言葉「吾が心清清し(すがすがし)」に基づく。[[1901年]]に栃木師範学校付属小学校に入学。在学中に[[田中美知太郎]](後の哲学者、京都大学教授)が転校して来て、以降終生の友人として接することになる。[[1914年]]には父の就職先である[[早稲田中学校・高等学校|早稲田中学校]]に入学<ref>尚、田中は[[開成中学校・高等学校|開成中学校]]に進学したが、同期に[[詰仲男]]がいた。</ref>。
 
同じ[[1915年]]、[[丘浅次郎]]の『進化論講話』を読み[[進化論]]に興味を持った山内は、「翻訳よりも安い」という理由で『[[種の起源]]』の原著を購入し、田中らと回し読みを始める。同時に、[[新ラマルク説]]、[[メンデル]]の[[メンデルの法則|遺伝説]]、[[コンクリン]]の『遺伝と境遇』を読み、進化論への興味を発展させる。[[1917年]]、[[堀之内貝塚]]で縄文土器を採集し、初めて考古学に接する。[[1918年]]になると、当時の流行思想であった[[マルクス主義]]、[[無政府主義]]、[[労働組合]]に興味を持ち、[[岡田来司]]と共に『[[資本論]]』『[[フランスにおける内乱]]』、[[ピョートル・クロポトキン|クロポトキン]]の『相互扶助』などの洋書を読んでいる。しかしこれらに対して山内は批判的で、特に『相互扶助』については「生物学的に無価値だ」とまで言い切っている<ref>佐原真「山内清男論」</ref>。9月には、谷川磐雄(後の[[大場磐雄]])と出会い、12月に考古学者である[[鳥居龍蔵]]の元を訪れている。以後、鳥居を師として山内の考古学研究は進行することになる。
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