「志駄義秀」の版間の差分

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'''志田 義秀'''(しだ よしひで、[[永禄]]3年([[1560年]]) - [[寛永]]9年([[1632年]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]~[[江戸時代]]の人物、[[武将]]。[[上杉家]]家臣[[志田氏]]当主。[[志田義時]]の子。生母が[[直江景綱]]の娘なので、[[直江兼続]]・[[直江信綱]]とは義理の[[従兄弟]]に当たる。[[修理亮]]を名乗る。通称、源四郎。なお、姓の正式表記は志駄である。
 
二歳の時に父義時が[[川中島の戦い]]に於いて戦死した為に家督を継ぎため、祖父春義を後見人として家督を継ぎ、[[夏戸城]]主(現、[[長岡市]][[寺泊]])となる。
 
成人後は[[直江兼続]]の与力として活躍。文禄4年([[1595年]])、兼続の下で代官として[[庄内金山]]の管理などを行っている。
 
[[上杉氏|上杉家]]の会津転封時にはそれに従い、[[亀ヶ崎城|東禅寺城]](現、[[酒田市]])を治める。