「ソロヴェツキー修道院」の版間の差分

語彙修正等
m (ロボットによる 追加: es:Monasterio de Solovetsky)
(語彙修正等)
 
== 歴史 ==
ソロヴェツキー修道院は[[1429年]]後半にキリロ=ベロゼルスキー修道院の二人の修道士、Gherman(もしくはHerman)ゲルマンサワティ([[:en:Savvatiy|Savvatiy]]によって設立された。以後[[16世紀]]に至るまで、修道院はその領地を急速に広げ、それは[[白海]]沿いの海岸と白海に注ぐ川にまで及んだ。この中には[[ノヴゴロド]]人であった[[:en:Marfa Boretskaya|Mafra Boretskaya]]によって[[1450年]]に割譲された[[ケミ (ロシア)|ケミ]]とSumaも含まれる。修道院は生産活動および貿易も拡大していき、白海地域の経済および政治の拠点として成長した。修道院の[[掌院]]<ref name=a/>は[[ツァーリ]]および[[総主教]]によって直接指名された。[[1694年]]には[[ピョートル1世]]がソロヴェツキーを訪れている。
 
ソロヴェツキー修道院の収入源は製塩([[1660年]]代には54カ所の製塩所を有していた)、海産物の販売、仕掛けを用いた狩猟、[[漁業]]、[[雲母]]の加工、[[鉄工業]]、[[真珠]]の加工などであり、これには多数の労働力を必要とすることとなった。
 
[[17世紀]]までにはすでにソロヴェツキー修道院は350の修道士、600から700の召使い、熟練工、小作農民を有していた。[[1650年]]代から1660年代にかけて[[:en:Patriarch Nikon|ニーコン総主教]]による改革に反発した[[古儀式派]]の拠点となり、[[1668年]]-[[1676年]]には古儀式派の修道士によってソロヴェツキー修道院における反乱([[:en:Solovetsky Monastery Uprising|en]])が起こった。[[1765年]]にはソロヴェツキー修道院は総主教および[[教会会議]]直属の修道院となった。
[[画像:Napadka.jpg|200px|thumb|right|クリミア戦争時、艦隊から砲撃を受ける修道院]]
 
「ソロヴェツキー諸島の文化と歴史遺産群」はソロヴェツキー諸島のProsperity Bay(ロシア語:{{lang|ru|бухта Благополучия}})沿いに位置している。ソロヴェツキー修道院の領地は、7つの門と8つの塔([[1584年]]から[[1594年]]にかけて、Trifonと呼ばれる建築家によって建てられた)を伴った高さ8-11m、厚さ4-6mの巨大な壁によって囲まれ、それらは主に長さ5mの巨石から成っている。修道院内には宗教的な建物もあり(主要な物は屋根付きの湾曲した通路によってお互いに連絡している)、それらは複合的な住居や居住区によって囲まれている。Uspensky大聖堂([[1552年]] - [[1557年]]築)に付随する食堂(500m²)や、Preobrazhensky大聖堂([[1556年]] - [[1564年]]築)、Church of Annunciation([[1596年]] – [[1601年]])、stone chambers([[1615年]])、水車小屋(17世紀初頭のもの)、鐘楼([[1777年]])、Church of Nicholas([[1834年]])などがその例である。
 
今日では、ソロヴェツキー修道院は歴史および建築史の博物館としての役割を負っている。ロシア国内で最も早く[[ユネスコ世界遺産]]に登録された建造物でもある。修道院では修道士たちが[[正教]]として生活取り戻復興しつつあり、現在約10名の修道士達が修道院で暮らしている。過去数年間で修道院は修復・補強されており、現在もそれは続いている。
 
== 関連項目 ==
15,175

回編集