「フェルディナンド3世 (トスカーナ大公)」の版間の差分
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'''フェルディナンド3世'''('''Ferdinando III di Asburgo-Lorena'''または'''Ferdinando III di Toscana''', [[1769年]][[5月6日]][[フィレンツェ]] - [[1824年]][[6月18日]]フィレンツェ)は、[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]](在位:[[1790年]] - [[1801年]]、[[1814年]] - [[1824年]])。[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|ピエトロ・レオポルド]]大公の次男で、
[[1790年]]、父が[[神聖ローマ皇帝]]レオポルト2世として帝位につく際、長男フランチェスコを帝位継承者とし、次男フェルディナンドに大公位を継がせた。レオポルトは2年後の1792年に死去し、フランチェスコは[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]として帝位を継承したが、最後の神聖ローマ皇帝となった(代わって[[オーストリア帝国|オーストリア]]皇帝フランツ1世を称した)。
フェルディナンド3世は人民に愛されながら父が残した数々の改革を見直した。フェルディナンドの治世は[[1799年]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]軍の侵入で中断したが、[[1814年]]の[[ウィーン条約]]で復活し、以後は[[1824年]]に死去するまで在位した。その治世下では、[[マレンマ]]地方と[[キアーナ渓谷]]の干拓、[[水道]]の敷設、トスカーナと国境を接する地方を結ぶ道路の開設のような多くの公共事業が停止された。▼
▲フェルディナンド3世は人民に愛されながら、父が残した数々の改革を見直した。フェルディナンドの治世は[[1799年]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]軍の侵入で中断したが、[[1814年]]の[[ウィーン条約]]で復活し、以後は[[1824年]]に死去するまで在位した。その治世下では、[[マレンマ]]地方と[[キアーナ渓谷]]の干拓、[[水道]]の敷設、トスカーナと国境を接する地方を結ぶ道路の開設のような多くの公共事業が停止された。
{{先代次代|[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]]|1790 - 1801|[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|ピエトロ・レオポルド]]|([[エトルリア王国]])}}▼
{{先代次代|トスカーナ大公|1814 - 1824|[[エリザ・ボナパルト|エリザ]]|[[レオポルド2世 (トスカーナ大公)|レオポルド2世]]}}▼
[[両シチリア王国|両シチリア]]王[[フェルディナンド1世 (両シチリア王)|フェルディナンド1世]]の娘で、父方でも母方でも従妹に当たる[[ルイーザ・マリア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ|ルイーザ・マリア]]と大公位継承と同じ年に結婚し、後継者[[レオポルド2世 (トスカーナ大公)|レオポルド2世]]をはじめ3男3女をもうけた。
{{先代次代|ザルツブルク選帝侯・大公|1803 - 1805|大司教[[ヒエロニュムス・フォン・コロレド]]|皇帝[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]}}▼
{{先代次代|ヴュルツブルク大公|1806 - 1814|―|―}}▼
▲{{先代次代|[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]]|1790年 - 1801年|[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|ピエトロ・レオポルド]]|([[エトルリア王国]])}}
▲{{先代次代|トスカーナ大公|1814年 - 1824年|[[エリザ・ボナパルト|エリザ]]|[[レオポルド2世 (トスカーナ大公)|レオポルド2世]]}}
▲{{先代次代|ザルツブルク選帝侯・大公|1803年 - 1805年|大司教[[ヒエロニュムス・フォン・コロレド]]|皇帝[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]}}
▲{{先代次代|ヴュルツブルク大公|1806年 - 1814年|―|―}}
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