「吉田戦車」の版間の差分

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[[1979年]]、[[岩手県立水沢高等学校]]入学(中学校から高校までは剣道部に所属)。高校時代は当時、台頭していた[[ニューウェーブ (漫画)|ニューウェーブ]]コミックを中心とした漫画を読むことに熱中し、漫画創作からは遠ざかる。また[[山口瞳]]のエッセイや[[水島新司]]の漫画『[[あぶさん]]』の影響で、酒を盗み飲みするようになり、学校をサボり始める。両親は共働きで昼間は不在のため、自宅は友人たちの溜まり場になる。授業をサボって、卑猥な絵を校舎の壁に描いたこともあるという<ref name=A/>。
 
[[1982年]]、上京。1年の浪人を経て[[1983年]]、[[和光大学]][[人文学部]]入学。大学に近い[[町田市]]で暮らすが、大学にはほとんど行かずアパートでぶらぶらと過ごす<ref>なお、同じアパートに、偶然にもデビュー前の[[上野顕太郎]]が居住していた。『KAWADE夢ムック 総特集:吉田戦車』より</ref>。おしゃれな東京の中心部にはほとんど足を運ばなかった。この時のコンプレックスが、のちの「郷土愛に燃える主人公」が登場する作品『ぷりぷり県』に反映しているという<ref name=A/>。大学は卒業はせず、高校の同級生の[[芹澤達也]](当時、編集プロダクション「VIC出版」<ref>なお、このプロダクションにアルバイトとして、後の[[朝倉世界一]]がおり、芹澤の同僚が朝倉のペンネーム「世界一」を命名した。『KAWADE夢ムック 総特集:吉田戦車』よりP.217</ref>所属、現[[角川書店]]の編集者)からの依頼で、エロ漫画雑誌に穴うめ的なカットや文章、漫画などを発表する<ref name=B>『KAWADE夢ムック 総特集:吉田戦車』より。P.191~194</ref>。
 
=== 漫画家デビュー以降 ===
[[1985年]]、芹澤が編集した「女子高校生専門誌」の『[[ポップアップ]]』で、女子高校生観察のイラストルポ「なめくじ絵日記」と初期の代表作「鋼の人」が含まれる読みきり連載漫画「スタミナ劇場」でデビュー<ref name=B/>(ただし、それ以前に数冊のエロ雑誌に作品を発表しており、「本当の」デビュー雑誌は本人も覚えていないという<ref name=A/>。)。ペンネームも芹澤がつけ、「戦車」となったのは芹澤がミリタリー・マニアだったからだという<ref name=B/>。あまり気に入った名前ではなかったが、変える機会を失って現在に至っている<ref name=A/>。
 
初期の画風には[[ユズキカズ]]の影響があり、純粋なギャグ漫画ではなく思春期の存在不安を感じさせる「[[ガロ (雑誌)|ガロ]]的」な作風の中篇も多かった。また、「VIC出版」で知り合った[[とがしやすたか]]、[[若林健次]]の紹介で準メジャー誌へも執筆範囲を広げ<ref name=B/>、『戦え!軍人くん』からいじめてくんや火星人もの、みっちゃんのママなどのシリーズが生れている。[[1988年]]、やはり「VIC出版」で知り合った[[朝倉世界一]]と編集者2名、カメラマン1名とで[[初台]]に通称「ハゲ事務所」という共同作業場を持つ<ref name=B>『KAWADE夢ムック 総特集:吉田戦車』P.220</ref>。
 
[[1989年]]、「[[ビッグコミックスピリッツ]]」においてとして、[[相原コージ]]『[[コージ苑]]』の後任として、何人かの異様な常連キャラクターが多数登場する、連続四コマギャグ漫画作品『[[伝染るんです。]]』を連載開始。一躍、重要なギャグ漫画家として注目されるようになる。へんてこな言葉や事物の組み合わせと絶妙の描線により、[[フランツ・カフカ]]を髣髴とさせる童話的な困惑空間を創り上げる作品は不条理ギャグ漫画ともよばれた。第1巻は20万部が即日完売した。
 
それ以降、現在に至るまで、様々な奇妙なキャラクターや世界観を次々に創造し、四コマ/ストーリー物のギャグ漫画をコンスタントに描き続けている。その人気のめもあり、類似した作風の「吉田戦車フォロアー」を多数生んだが、そのうちギャグ漫画家として生き残た者は数少なかった
 
[[1990年]]、編集者の妻と最初の結婚。[[1991年]]、『伝染るんです。』で第37回[[文藝春秋漫画賞]]受賞。『伝染るんです。』は売り上げが合計100万部を超える。大ヒットで生活は一変。バブル末期ということもあり、家賃40万のマンションの他に、銀行から節税対策と言われ、山梨に別荘、都内にワンルーム・マンションを購入。また国産の4WDからベンツに乗り換える。だが「おまえは、何をやってるんだ」と自分の行動に突っ込みをいれる自分もいたという<ref name=A/>。
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== エピソード ==
{{出典の明記|date=2009年3月}}
* 活動初期は、初めて会う人から「あんな奇妙な漫画を描くのは、どんなに変わった人だろう」と予測され、吉田と出会ってみるとその「普通の好青年ぶり」に驚かれることが多かった<ref name=B>『KAWADE夢ムック 総特集:吉田戦車』P.66他</ref>。
**ただし、『KAWADE夢ムック 総特集:吉田戦車』に掲載された[[とり・みき]]や[[伊藤理佐]]によるエッセイ漫画によると、「一見常識人ではあるが、微妙にピントがずれた行動をしばしば取り、周囲に困惑を招く」人物として描かれている。また、とりの漫画によると、[[通信販売]]の大のマニアであるという。
* 『伝染るんです。』の単行本では「不条理漫画家と呼ばれる事に抵抗があったが、最近は慣れつつある」とコメントしている。
* 『伝染るんです。』以降のほとんどの単行本の装丁を[[祖父江慎]]が手がけており、毎回、凝りに凝った装丁がされている。特に『伝染るんです。』では意図的に落丁本のような装丁をしたため、書店の現場で大混乱が発生したという<ref name=B>『KAWADE夢ムック 総特集:吉田戦車』P.183</ref>。
* 小学校から高校まで漫画家の[[後藤寿庵 (漫画家)|後藤寿庵]]と同じ学校で1年先輩であるが、面識はない。
* 映画監督の[[佐藤嗣麻子]]も高校の1年後輩であり、彼女は漫画研究会に所属していたが、吉田は剣道部員であり、当時は面識はなかった<ref name=B>『KAWADE夢ムック 総特集:吉田戦車』P.99</ref>。
* [[ジャーナリスト]]・[[政治学者]]であり[[サッカー日本代表]]元監督の[[イビチャ・オシム|オシム]]の[[通訳]]を務めていた[[千田善]]は従兄<ref name=B>『KAWADE夢ムック 総特集:吉田戦車』P.92</ref>。
* 共著を出している[[川崎ぶら]]とは親交が厚く、一緒に都内近郊で写真を撮る活動を行っていたこともあった<ref name=B/>。また、川崎の小説本『雨の日はいつもレイン』(角川文庫)の表紙絵も描いている。
* 2006年に[[課外授業 ようこそ先輩]]に出演している。
* [[椎名林檎]]など他分野の[[アーティスト]]のファンも多い。『ぷりぷり県』イメージアルバムへは[[たま]]が参加している。