「交響曲第4番 (メンデルスゾーン)」の版間の差分

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メンデルスゾーンは自身の作品に対しての評価は厳しく、作曲後にしばしば改訂を行うことが少なくなかった。この曲についてもしばらくして改訂することとなったが、J.M.クーパーをはじめとする研究家達によれば、その改訂は未完成なまま終わったものと推測されている。遺されている資料によれば以下のような経緯をたどったものとされる。
 
#初演の翌年である1834年6月、フィルハーモニック協会は[[イグナーツ・モシェレス]]の指揮でこの曲を再演した。メンデルスゾーンはモシェレスからの手紙でこのこ再演をするいうったしい。再演させを受けており、そたことがきっかけとなりしたのか改訂しようと考え作業を始めた。
#手元に[[総譜|スコア]]がなかった(この交響曲はフィルハーモニック協会2年間独占演奏権を持つこととしが与えられてい。そのため彼らメンデルスゾーンの手元預けてい[[総譜|スコア]]はなかっ。そとから、メンデルスゾーンは姉などに聞いたり自分の記憶を頼りにして改訂を始めた。1835年の2月までに第2~4楽章は改訂し終えた(第2稿)ものの、第1楽章は改訂が大がかり改訂が必要と考えていたためようで、完成していなかった。
#1837年の8~9月のバーミンガム音楽祭のため訪英したメンデルスゾーンは、フィルハーモニック協会に改訂の意向を伝えたものと推測されている。同年12月にモシェレスから「(演奏に使うので)改訂版を早く完成してくれ」との手紙が送られているからである。
#しかしメンデルスゾーンはフィルハーモニック協会に改訂版を送ることはしなかった。1840年の秋から翌年春にかけては協会側の「初演を演奏するな、と言っておいて送ってくれないのはどういうことだ」という抗議に対しメンデルスゾーンが「公式に約束した覚えはない」という手紙が送られるなどの険悪なやりとり(最終的に協会側がコミュニケーション不足だったと謝罪)があった記録が残っている。
#おそらく1840年1842年にメンデルスゾーンは演奏会のため渡英した際ているがおそらくその際に協会から自筆スコアは戻ってきた。しかし1847年に亡くなるまで、メンデルスゾーンがこの曲の改訂を進めた確実な記録はない。
#メンデルスゾーンの死を悼んだ[[ビクトリア女王]]の命で、フィルハーモニック協会は1848年3月にこの曲を再演した。ただその際に使われた手書きスコア(パート譜から再現したらしい)は現存しているが、メンデルスゾーンの自筆譜とは微妙に違っている。
 
メンデルスゾーンの死後4年たった1851年に[[ブライトコプフ・ウント・ヘルテル|ブライトコプフ社]]から初めて出版されたが、この譜面は初稿版とほぼ同じものである可能性が高い。近年の校訂版でも基本的には同じである。[[ジョン・エリオット・ガーディナー]]指揮[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]の演奏によるCDで聴く事ができる演奏は、CDのライナーノーツにある第1稿ではなく、未完のままだった第2稿であろうと考えられている。
 
== 初演 ==