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'''神保 長誠'''(じんぼう ながのぶ、? - [[文亀]]元年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]([[1501年]][[12月28日]]))は、[[室町時代]]の[[越中国]][[放生津]]城を拠点とする[[射水郡|射水]][[婦負郡]][[守護代]]および[[紀伊国]]分郡守護代であり、[[畠山政長]](畠山尾州家)の家臣である。越前守。宗右衛門尉。孫三郎。[[神保慶宗|慶宗]]の父。[[神保長職|長職]]の祖父。
 
[[応仁]]元年、長誠は[[畠山政長]]に[[上御霊社]]での挙兵を薦め、これにより[[応仁の乱]]が勃発した。長誠は各地で奮戦し、扇谷[[上杉定正]]にその武勇を激賞されるなど、目覚しい活躍ぶりを見せた。その後、越中へ戻り、[[倉垣荘]]など[[寺社本所領]]を押領して勢力の拡大に努めた。1493年([[明応]]2)に、[[細川政元]]などが10代将軍[[足利義稙|足利義材]]を廃立して政長を自害させた[[明応の政変]]が起こった。長誠は中風を煩って越中に帰国中だったため難を免れたが、部下の越中衆の多くが主君政長に殉じた。しかし義材が京都の幽閉先を脱して、長誠を頼ると、これを迎えて放生津の正光寺を将軍御所として改装した。義材は[[越中公方]]と呼ばれた。長誠は細川政元派の[[畠山義豊|畠山基家]]軍(畠山総州家)の越中侵攻をたびたび撃退して軍事力を誇示する一方、被官鞍河某に数千貫の料足を持たせて京に送り、義材の将軍復帰工作に尽力するなど。和戦双方の手で義材の上洛を支援した。その結果、義材は政元側との和睦交渉が進展したという認識を持ちはじめ、明応8年([[1499年]])に義尹(義材より改名)は越前へ移った。しかし政元に義尹との和睦意識はなく、義尹は軍事行動で上洛を図るが失敗し、周防の大内氏を頼った。このとき長誠は後継者である[[神保慶宗]]率いる越中勢を派兵し、周防まで同行させている。長誠は1501年([[文亀]]元年)病没した。