「覚山尼」の版間の差分

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== 略歴 ==
父義景が出生の翌年に死去したため、21歳離れた異母兄泰盛の[[猶子]]として養育された。鎌倉甘縄安達邸で育ち、[[弘長]]元年([[1261年]])に10歳で北条[[得宗]]家の嫡子で11歳の時宗に嫁ぎ、安達氏と得宗家の縁を結ぶ。夫婦仲は、時宗の帰依した[[無学祖元]]の証言などから仲睦まかったとされ、[[文永]]8年([[1271年]])12月,
歳の時嫡男・[[北条貞時|貞時]]を出産。[[日蓮]]の回想によれば、時宗は嫡子誕生の喜びから日蓮を恩赦して死一等を減じ、流罪に減罪したと言われる。また、時宗の影響で禅も行っている。[[建治]]3年([[1277年]])には流産をしている。
 
[[弘安]]7年([[1284年]])4月、病床にあった時宗は[[無学祖元]]を祖に[[西明寺]]で出家し、共に出家している。時宗は34歳で死去し、時宗の死後息子貞時が執権に就任、兄泰盛が幕政を主導。晩年は仏事につとめ、父義景、兄泰盛の後を受けて[[遠江国]]笠原荘を領している。弘安8年([[1285年]])に、[[内管領]][[平頼綱]]の讒言を信じた執権貞時が、泰盛を始めとする[[安達氏]]一族を誅殺する([[霜月騒動]])。この事件の際、安達一族の子供達を庇護したと見られ、その後の安達氏の勢力回復には覚山尼の存在が大きかったと思われる。同年には貞時の承認を得て鎌倉松ヶ岡に[[東慶寺]]を建立。さらに夫の暴力などに苦しむ女性を救済する政策を行なったと言われ、直接史料は無いが、これが元で東慶寺は[[縁切寺]]、もしくは[[駆け込み寺]]となったと言われている。55歳で死去。
 
== 関連項目 ==