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後漢の光武帝の長男。当初皇太子に立てられ、後に廃位されて東海王となった。
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2009年4月29日 (水) 14:06時点における版

劉彊(りゅう きょう、25年-58年)は、後漢の人。後漢光武帝の長男。当初皇太子に立てられ、後に廃位されて東海王となった。

略歴

母は光武帝最初の皇后である郭聖通建武2年(26年)、母郭聖通が皇后に立てられ、同時に劉彊は皇太子に立てられた。しかし建武17年(41年)に母が皇后を廃されると、劉彊も不安を感じ、左右の者や諸王を通じて、皇太子の位を降りて諸侯王になりたいと願い出るようになった。光武帝は廃位するに忍びずなかなか許さなかったが最後には了承し、建武19年(43年)に劉彊は東海王となり、建武28年(52年)に領国に赴任した。

光武帝は過失により廃位されたのではなく、礼に即した態度であったため彼を厚遇し、魯郡を含む29県という大きな領土を与え、馬車や宮殿の精度は皇帝と同等のものとすることを許した。しかし劉彊は東海郡を返上することを申し出、光武帝は許可しなかったが感心してその文章を臣下に見せた。魯にはかつて前漢の魯王である劉余が作った壮麗な霊光殿という宮殿があったので、光武帝は劉彊に魯に都を置くよう命じた。

建武中元元年(56年)に入朝し、泰山での封禅に同行した。翌年春に光武帝が死去し、冬に帰国した。

その翌年の永平元年(58年)、劉彊は病気となった。弟の明帝は医者を遣わし、彼の兄弟たちに諸侯王たちに魯へ行くよう命じたが、劉彊は死亡した。明帝は司空を派遣して葬儀を司らせ、特別の格式で葬らせた。

劉彊は享年34歳であった。恭王とされ、領国は子の東海靖王劉政が継いだ。東海王はその後も子孫により継承され、後漢が滅ぶまで続いた。

参考文献