「蔡茂」の版間の差分

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[[新]]末に天下が騒乱状態になると、蔡茂は[[竇融]]と親交があったため、河西<ref>中国の北西部で、黄河が内陸を北東に流れる領域において、その西部。</ref>に拠っていた竇融の下に逃れた。竇融は蔡茂を張掖太守に任じようとしたが、蔡茂はこれを固辞し、俸給を受けて家を保つだけでよしとした。
 
後に竇融とともに[[光武帝]]に招聘され、再び議郎に任命され、さらに廣漢太守に遷った。廣漢郡(現[[四川省]][[広漢市]])では陰氏の賓客たちが度々禁を犯していたが、蔡茂はこれを恐れることなく、糾弾した。蔡茂の政治の成績は優秀であった。また蔡茂は、光武帝の姉湖陽[[公主]](劉黄)を弾劾した洛陽令董宣の剛直ぶりを喜び、朝廷の外戚たちの専横を取り締まる目的で董宣の任用を光武帝に建議した。光武帝も、これを容れている。
 
[[建武 (漢)|建武]]20年([[44年]])4月に、[[司徒|大司徒]]戴渉が罪により獄死すると、同年6月に蔡茂はその後任として大司徒に就いた。在職中は、清廉にして怠ることなく職務に取組んだという。
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