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義仲の挙兵時から付き従い、[[倶利伽羅峠の戦い]]などで重要な役割を果たす。義仲軍上洛後も[[法住寺合戦]]で[[後白河法皇]]を拘束するなどその片腕として活躍した。
 
元暦元年、義仲の敗死後、[[児玉党]]の薦めで降伏するも[[源頼朝]]の命により斬首。その際、その武勇を惜しむ[[源範頼]]や[[源義経|義経]]をはじめ、多くの人から助命嘆願があったとさが、こに[[公家]]達が猛反発を起こし、助命はかなわなかったと『平家物語』に載(後述)
 
『[[吾妻鏡]]』の記述によれば、「武蔵国児玉の輩(ともがら)と親昵(しんぢつ)たるの間」とあり、親しい関係だったとあり、党の誰を指しているのかは不明だが、次の項には、児玉党本宗家5代目である[[庄家長|庄太郎家長]]が出てくる(この事から[[庄氏]]の誰かと思われる)。