削除された内容 追加された内容
暇編集 (会話 | 投稿記録)
新しいページ: '朱 家(しゅ か、生没年不詳)は、秦から前漢の人。国の人。游侠として知られる。 ==略歴== 游侠とは仁義を貫…'
 
暇編集 (会話 | 投稿記録)
2行目:
 
==略歴==
游侠とは[[仁義任侠]]を貫くことを生き甲斐にしていた人のことで、器量を鼻にかけたり、恩着せがましいことをせず、人を匿って命を助けるもののことであった。
 
特に朱家は名が通り、普段は腰が低く貧しい身なりや1日の食事は一汁一菜という貧しい生活をしていた。人を匿い助けること数百を超え、また貧しき者から助けていたために人気が高く、朱家のためなら命を惜しまぬ者も多数いたという。だが朱家自身、人を助けたからと言って礼を言われることを嫌っていたため、逆に礼をする者はいなかったという。
8行目:
その朱家を知り、濮陽の周氏が[[楚漢戦争]]で敗北し[[劉邦]]より千金の賞金首になった上に匿った者は三族処刑すると言われた[[季布]]を匿ってほしいと伝えた。そして、周氏は身なりのやつれた奴隷を朱家に譲り渡した。朱家はその奴隷が季布であることを察し、丁重に扱った。
 
朱家は次に[[任侠]]に厚い劉邦の側近である[[夏侯嬰]]と面会した。
 
そこで朱家は夏侯嬰に対し「季布は項羽の命に従って劉邦の軍勢を追い回しただけなのに、賞金首にするのであれば項羽の部下全員皆殺しにしなければならないでしょう。私怨で季布を追い回すのを止め、すぐに放すべきだ。」と説いた。
 
それを聞いた夏侯嬰は朱家が季布を匿っていると感じ取ると、夏侯嬰は[[劉邦]]に説き季布が放たれ、季布が[[近衛兵|郎中]]に取り立てられ、[[河東郡]]の[[太守]]にまで出世したという。
 
だが、季布は生涯として朱家には会わなかったという。