「田中保」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
主な作品を追加 |
Oomiyaardija4 (会話 | 投稿記録) m編集の要約なし |
||
1行目:
'''田中 保'''(たなか やすし、[[1886年]][[5月13日]] - [[1941年]][[4月24日]])は、日本の美術家。[[埼玉県]][[南埼玉郡]]岩槻町(現・[[さいたま市]])出身。海外で活躍した[[エコール・ド・パリ]]の画家で
== 経歴 ==
1886年旧岩槻藩士の金融業を営む収・きよの四男として生まれる。1902年父収の死によって一家は破産し、離散状態になる。1904年埼玉県立第一中学校(現・[[埼玉県立浦和高等学校]])卒業後、単身渡米し[[シアトル]]へ渡る。その後皿洗いやピーナッツ売りなどで生計をたてる暮しのなかで、次第に画家の道を志すようになり独学で絵画の勉強を始める。1912年頃、アカデミックな傾向の[[オランダ]]人画家フォッコ・タダマの画塾に入学し、素描や油彩を学ぶ。
1915年シアトル市公立図書館展示室で初めての個展を開く。この頃タダマの画塾で
1920年更なる高みを求めて美術の中心地フランス・[[パリ]]に約100点の作品を携えて移住する。その後、画塾を開きながら個展の開催や[[サロン・ドートンヌ]]
1939年[[第二次世界大戦]]が勃発し、日本人のほとんどが帰国する中パリに留まり、戦火を避けながら、定期的に作品の発表を続ける。1941年[[ドイツ]]軍占領下のパリで
この後、田中の作品群は
作品の大部分は[[埼玉県立近代美術館]]にコレクションされている。近年他の美術館でも田中保のコレクションが徐々に増えている。
== 主な作品 ==
18 ⟶ 20行目:
* 「ルイズ・カンの肖像」(1919年頃)([[ウッドワン美術館]])
* 「セーヌの宵」(1920年)([[静岡県立美術館]])
* 「海と人影」(1917~20年頃)([[サトエ記念21世紀美術館]])
* 「後ろむきの裸婦」(1923年)([[国立西洋美術館]]) [[松方コレクション]]
* 「裸婦」(1924年)([[埼玉県立近代美術館]])
* 「ソリタ・ソラノの肖像」」(1927年)([[名古屋市美術館]])[[サロン・デ・ナショナル]]出品作品
* 「夢をみる裸婦」(1930年)([[池田20世紀美術館]])
* 「黒いドレスの腰かけている女」(1920~30年頃)([[埼玉県立近代美術館]])
* 「金髪の裸婦」(1920~30年頃)([[目黒区美術館]])
* 「自室にいる裸婦」(1920~40年頃)([[サトエ記念21世紀美術館]])
* 「
== 交友関係==
29 ⟶ 34行目:
== エピソード ==
*《キュビストA》(1915年)の裏には、未来の結婚相手になるルイーズ・カンへの愛の書き込みがある。▼
*《裸婦》(1924年)は、渡仏中の[[朝香宮]]殿下が買い上げた作品と伝えられている。
*親交があった日本人画家は[[平賀亀祐]]で、[[藤田嗣治]]とは面識があったが、挨拶程度の付き合いでしかなかった。
*[[国立西洋美術館]]所蔵の[[松方コレクション]]に“TANAKA”と署名のある《後ろむきの裸婦》があり、画家[[田中万吉]]の作品とされていたが、日本初の個展後に田中保の作品であることが判明したほど日本での知名度は皆無に等しかった。
*新聞の批評では、「いわゆるジャポネズリーではなく、日本人として繊細で鋭敏な感覚とヨーロッパの手法が見事に調和している」(ジュルナル・デ・バ)とされた。
▲*1925年と1930年に東京での個展開催を希望したが、諸般の事情で実現するに至らなかった。
*風貌が、[[チャールズ・チャップリン]]に似ていることから、[[モンパルナス]]のカフェテラスに座っていると、しばしば間違えられた。また夫人はC.Cと読んでいた。
▲*《キュビストA》(1915年)の裏には、未来の結婚相手になるルイーズ・カンへの愛の書き込みがある。
== 参考文献 ==
42 ⟶ 49行目:
=== 画集・図録 ===
*「田中保展」、1976年、東京伊勢丹新宿店
*「田中保展」、1977年、埼玉開館郷土資料室
*「祖国に蘇る幻の巨匠・田中保展」、1981年、東急百貨店日本橋店
*「ラプソディ・イン・パリ-田中保をめぐる画家たち-」、1988年、[[埼玉県立近代美術館]]、ナビオ・ギャラリー(梅田)、川越市市民会館
*「裸婦の画家 タナカ・ヤスシ」、1997年、[[愛媛県立美術館]]
*「画家タナカ・ヤスシ シアトルとパリにかけた夢」、1997年、[[埼玉県立近代美術館]]
*「田中保(1886-1941)展~戦前のアメリカとフランスで活躍した知られざる巨匠~」、2002年、[[サトエ記念21世紀美術館]]
|