「一国社会主義論」の版間の差分

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'''一国社会主義論'''(いっこくしゃかいしゅぎろん)とは、世界革命を経なくても一国で[[社会主義]]の建設が可能だとする考え方。[[1924年]]に[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]が主張し、各国の[[共産党]]において支配的な見解となった。
 
==ヨーロッパ革命先行論からロシア革命先行論へ==
[[カール・マルクス]][[フリードリヒ・エンゲルス]]は、当初、共産主義革命はヨーロッパの先進国で起こってその他の地域に波及していくものと予想していた。[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]は[[1847年]]に書かれた『共産主義の原理』という草稿で次のように論じていた。
 
{{quotation|共産主義革命は、けっしてただ一国だけのものでなく、すべての文明国で、いいかえると、すくなくとも、[[イギリス]][[アメリカ合衆国|アメリカ]][[フランス]][[ドイツ]]で、同時におこる革命となるであろう。〔…〕それは、世界の他の国々にも同じようにいちじるしい反作用をおよぼし、それらの国々のこれまでの発展様式をまったく一変させ、非常に促進させるだろう。それは一つの世界革命であり、したがって世界的な地盤でおこるだろう。<ref>マルクス=エンゲルス『共産党宣言 共産主義の原理』マルクス=レーニン主義研究所訳、大月書店<国民文庫>、1952年、94-95ページ</ref>}}
マルクスとエンゲルスは、当初、共産主義革命はヨーロッパの先進国で起こってその他の地域に波及していくものと予想していた。[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]は[[1847年]]に書かれた『共産主義の原理』という草稿で次のように論じていた。
 
しかし[[1882年]]に書かれた『[[共産党宣言]]』の[[ロシア語]]版序文では、マルクスとエンゲルスは「[[ロシア]]は[[ヨーロッパ]]の[[革命]]的活動の前衛となっている」という認識を示し、「[[ロシア革命]]が[[西ヨーロッパ]]におけるプロレタリア革命の合図となり、その結果、両者がたがいにおぎないあう」<ref>同上、13ページ</ref>可能性に言及した。
{{quotation|共産主義革命は、けっしてただ一国だけのものでなく、すべての文明国で、いいかえると、すくなくとも、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで、同時におこる革命となるであろう。〔…〕それは、世界の他の国々にも同じようにいちじるしい反作用をおよぼし、それらの国々のこれまでの発展様式をまったく一変させ、非常に促進させるだろう。それは一つの世界革命であり、したがって世界的な地盤でおこるだろう。<ref>マルクス=エンゲルス『共産党宣言 共産主義の原理』マルクス=レーニン主義研究所訳、大月書店<国民文庫>、1952年、94-95ページ</ref>}}
 
しかし1905年の[[1882年ロシア第一革命]]に書かれた『共産党宣言』際、ロシア語版序文での[[マルクス主義]]者たちこのマルクスエンゲルスは「ロシアはヨーロッパ革命的活動の前衛となっている」という認識を示から出発し、ロシア革命が西[[ヨーロッパにおけるプロレタリア]]の先進国の革命の合図となりを引き起こすと主張した。もっとも明確にれを述べた結果、両者たがいにおぎないあう」<ref>同上、13ペ[[レフ・トロツキジ</ref>可能性に言及し]]の[[永続革命論]]だった。
 
1905年の[[ロシア第一革命]]の際、ロシアのマルクス主義者たちはこのマルクス・エンゲルスの認識から出発し、ロシアの革命がヨーロッパの先進国の革命を引き起こす、と主張した。もっとも明確にそれを述べたのがトロツキーの[[永続革命論]]だった。
 
{{quotation|ロシア革命は、ブルジョワ自由主義の政治家たちが完全な形でその政治的才能を展開する可能性をうる以前に、権力がプロレタリアートの手に移りうる(革命の勝利の際には移らねばならぬ)という条件をつくり出している。<ref>トロツキー「総括と展望」、『第二期トロツキー選集3 わが第一革命』原暉之訳、現代思潮社、1970年、318ページ</ref>}}
 
{{quotation|ロシアのプロレタリアートは、一時その手中に権力を握ったのち、自分自身のイニシアティヴでヨーロッパの土壌に革命を移植しようとしなくても、ヨーロッパの封建的・ブルジョワ的反動によって、そうすることを余儀なくされるであろう。<ref>トロツキー「総括と展望」、『第二期トロツキー選集3 わが第一革命』原暉之訳、現代思潮社、1970年、367ページ</ref>}}
 
この見解では、革命はヨーロッパの先進国より先にロシアで起こる。しかしロシアの革命政権が持続するためにはヨーロッパ革命が起こらなければならない。
 
==世界革命論から一国社会主義論へ==
十月革命を成功させて権力を獲得した[[ボリシェヴィキ]]は、ロシア革命がただちにヨーロッパ革命を呼び起こすことを期待した。1917年10月25日、[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]労働者・兵士代表ソヴィエトは「われわれが社会主義の大業を完全かつ強固な勝利をおさめるまで遂行するのを、西ヨーロッパ諸国のプロレタリアートがたすけるものと確信している」<ref>『レーニン全集』第26巻、大月書店、1958年、246ページ</ref>というレーニンの決議文を採択した。
 
しかしヨーロッパでの革命運動は次々に敗北し、[[ウラジーミル・レーニン]]が死んだ1924年の時点で革命の展望はほとんどなくなっていた。レーニン死後の権力闘争の中で、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]はトロツキーの永続革命論に対する批判を開始し、ロシア一国で社会主義建設が可能だとする一国社会主義論をつくりあげていった。
十月革命を成功させて権力を獲得したボリシェヴィキは、ロシア革命がただちにヨーロッパ革命を呼び起こすことを期待した。1917年10月25日、ペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエトは「われわれが社会主義の大業を完全かつ強固な勝利をおさめるまで遂行するのを、西ヨーロッパ諸国のプロレタリアートがたすけるものと確信している」<ref>『レーニン全集』第26巻、大月書店、1958年、246ページ</ref>というレーニンの決議文を採択した。
 
しかしヨーロッパでの革命運動は次々に敗北し、レーニンが死んだ1924年の時点で革命の展望はほとんどなくなっていた。レーニン死後の権力闘争の中で、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]はトロツキーの永続革命論に対する批判を開始し、ロシア一国で社会主義建設が可能だとする一国社会主義論をつくりあげていった。
 
{{quotation|トロツキーの理論は、一国における、しかも、おくれている一国における社会主義の勝利は、「西欧の主要な国々で」プロレタリア革命がまえもって勝利するのでなければ不可能であるという、メンシェヴィズムのありきたりの理論と、どこがちがっているか。<br />
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