「古ヨーロッパ文字」の版間の差分

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[[1875年]]、[[考古学]]的発掘調査により考古学者[[:en:Zsófia Torma]] (1840–1899) は[[トランシルヴァニア]] (現[[ルーマニア]]) の[[オラシュティエ]]に近い[[トゥルダシュ]]でかつて知られていなかった記号の刻まれた埋蔵物を見つけ出した。類似の埋蔵物が[[1908年]]にトゥルダシュからおよそ120km離れた[[ベオグラード]] ([[セルビア]]) [[郊外]]の[[ヴィンチャ]]で実施された発掘調査でも発見された。後に、ベオグラードの別の一部である[[:en:Banjica]]でも同様の断片がさらに発見された。それゆえこの文化は[[ヴィンチャ文化]]と呼ばれ、文字はしばしば'''ヴィンチャ=トゥルダシュ文字'''と呼ばれた。
 
1961年ルーマニアでNicolae Vlassaが[[タルタリアのタブレット]]を発見したことにより、論議が再燃した。Vlassaは銘文が[[絵文字]]であると信じており、出土品は後に[[放射性炭素年代測定法]]で彼の予想より300年以上も古く、[[シュメール]]人や[[クレタ文明|ミノア人]]の文字体系と比べてさえ古い、紀元前4000年以前のものであると測定された。今までに、類似の銘文が刻まれた1000個を超える断片が[[南東ヨーロッパ]]のいたるところ、特に[[ギリシア]] ([[ディスプリオのタブレット]])、[[ブルガリア]]、[[マケドニア共和国]]、かつての[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]、[[ルーマニア]]、東[[ハンガリー]]、[[モルドバ]]、および南[[ウクライナ]]で、各種の古代遺跡から発見されてきた。
 
ほとんどの銘文は[[土器]]に刻まれている。残りは[[紡錘]] (平らな円筒型の環)、[[人形]]、その他の物品の小さな集まりの上に現れている。85%を超える銘文はただ1つの記号からなる。記号それ自体は[[動物]]に似た表現、櫛やブラシの[[パターン]]、および卍のような、十字のような、山形模様のような抽象記号を含む、各種の抽象的で典型的な絵文字からなる。残りの碑文は記号のグループを含んでいるが、そのいくつかの配列には特定の明らかなパターンがなく、結果としてこれらのグループ内での記号の順序も書字方向も容易には決定できない。記号の使用方法は物品によって大きく異なる: それ単独で現れる記号はほぼ例外なく容器の上に現れる傾向があるが、他の記号とグループになる記号は渦巻きの上に現れる傾向がある。
 
これらの調査結果の重要さは、それらのうち最古のものの年代が[[紀元前4000年]]頃であると[[年代測定|測定]]されたという事実にある。これは知られている最古の文字であると通常考えられている、[[ウルク (メソポタミア)|ウルク]] (現[[イラク]]) の原シュメール[[絵文字]]より1000年ほど古い。記号の解析は、それらと中東の文字との類似点はほとんどないということを示し、それらはおそらく[[シュメール]]文明とは独立に発生したという説が導かれた。その記号と他の場所 (遠くは[[エジプト]]、[[クレタ]]そして[[中華人民共和国|中国]]さえも) で発見された新石器時代の記号には多少の類似性がある。しかしながら、中国の学者は、それらの記号が、多数の社会で独立して進化した文字の先駆けと呼ぶことができるものの収斂によって生じたと提言している。確かに、シュメールの[[楔形文字]]はトルコの[[チャタル・ヒュユク]]や、[[1954年]]に旧ソ連から保護区にされた黒海の北の[[ザポリージャ州]]の[[:en:Kamyana Mohyla]] (ともにヴィンチャ文明より数千年古い) で見つかった石の印と類似性がある(旧ソ連の言語学者IgorAnatoly DiakonovKifishinによる)。
 
多数の記号が知られているが、ほとんどの遺物は少数の記号しか含んでいないため、完全な文章を表現していることはありそうにない。おそらく唯一の例外は[[ブルガリア]]のシトヴォ近辺で見つかった石である。その年代には議論があるが、それに関係なく石には50程度の記号しかない。どんな[[言語]]が記号を使っていたのか、あるいはそれらがそもそも言語を表しているのかどうかは不明である。