「アンリ・ギザン」の版間の差分

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[[1939年]]8月、[[ナチス・ドイツ]]と[[ポーランド]]の関係が急速に悪化して戦争が避けられない情勢となると、[[ジュゼッペ・モッタ]]ら当時の連邦政府指導部は連邦議会とともに8月30日に武装中立と非常事態を宣言、政府と議会の代表からなる委員会に全権が委任された。委員会はヴォー州出身の[[フランス系]]軍人であるアンリ・ギザンを軍の最高司令官に任命して、臨戦態勢を整えた。ギザンは万が一にドイツ軍あるいは連合国軍がスイスに侵攻してきた場合には平野部を放棄して[[アルプス山脈]]に要塞を築いて徹底抗戦する計画を立案した。最高43万人の民兵が動員されてスイス国内は「ハリネズミ」と評されるほどの一大防衛体制が取られた。
 
だが、翌年に入るとモッタが急死し、続いて[[イタリア]]がナチス・ドイツ側に参戦し、[[フランス]]が降伏した([[オーストリア]]は既にドイツに併合されている(「[[アンシュルス]]」)ため、スイスの国境は全てドイツ側陣営と接する事になった。しかも、ドイツ系住民の中にはドイツ側への参戦を求める声が高まり、中立政策は動揺を来たした。
 
[[1940年]][[7月25日]]、ギザンは主だった軍の幹部・将校を建国伝説ゆかりの地である[[リュトリ]]に集めて演説を行い、スイスの自由と独立を守ってきた先人の精神を引き継いであくまでも国を守ってゆく事を誓ったのである(「'''リュトリ演説'''」)。<br>ギザンの言葉は以後、スイスの国民に広く伝わり、以後ドイツ側への参加を唱える者は少数となった。
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